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ルーズヴェルト夫人、カサン博士との友情…  

「21世紀の人権を語る」A.デ・アタイデ(池田大作全集第104巻)

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1  池田 では、具体的に歴史をたどりながら、「世界人権宣言」採択と、アタイデ総裁の活躍について、話題を進めたいと思います。
 アタイデ わかりました。
 第二次世界大戦で、連合国の勝利がほぼ確定したとき、アメリカ・サンフランシスコに、各国の大統領や政治家が集まり、会議がもたれました。(サンフランシスコ会議)
 ここでは、「国連憲章」の草案が討議され、会議の最終日である六月二十六日に調印、同年十月に発効しました。
 「憲章」の第一条第三項では、国際連合の深遠な役割の一つとして、「国際社会でのさまざまな人道的問題を解決し、種々の差別をなくして基本的人権を尊重するため、国際協力を達成すること」(要旨)が述べられています。
 池田 総裁は、「国連憲章」の意義について、明快に語っています。
 「『国連憲章』は、人権を一国の問題ではなく、国際的な問題とすることにより、国家に積極的な法的義務を課した。このことは、第二次世界大戦中に多くの犠牲を払って得た“勝利”のなかで、最大の“勝利”である」と。
 世界各国の人々が、さまざまな差異を乗り越えて、“人類”という普遍的立場から、人権と自由の尊重を保障しようとしたことは、画期的な出来事でした。
 アタイデ 「国連憲章」では、「平和と正義を愛し、大切にすることを共通点とする国々の共同体=国連」によって、最も直接的な目的であり、最も強固な論理的基盤である、「人類の基本的な権利に関する宣言=『世界人権宣言』」を作成することを志向しています。
 池田 「憲章」の第六二条では、国連の経済社会問題を担当する機関(経済社会理事会)で、人権の尊重と伸張のために、条約案を作成し、国際会議を招集することが定められています。
 この条文の主旨を踏まえた、「憲章」六八条の「人権の伸張に関する委員会の設置」についての条項にしたがって、一九四六年六月二十一日の国連経済社会理事会で、設置されたのが人権委員会です。
 この人権委員会が中心となって「世界人権宣言」が起草されました。そして、採択までに、条文検討のための第三委員会、採択の場となった国連総会など、各種の会議が開催され、各国の代表が英知を結集し、検討に検討を重ねました。
 アタイデ 池田会長のお話をうかがううちに、当時の様子があざやかによみがえってまいりました。人権委員会の十八人のメンバーのなかには、アメリカ大統領夫人のエレノア・ルーズヴェルト女史がいました。
 池田 ルーズヴェルト女史については、私も、創価大学、創価女子短期大学の学生に、その人となり、また活動を紹介したことがあります。
 アタイデ そうですか。ルーズヴェルト女史に対しては、世界中の人々が深い尊敬の念をいだいていました。
 池田 かつて対談した“アメリカの良心”故ノーマン・カズンズ氏も、彼女の印象を、こう述べていました。
 「彼女を知っている人――そして彼女を見た人は誰しも、こんなに美しい人を見たことがないと感じた。エレノア・ルーズヴェルトから、わたしは人間の慈悲と憐憫の力について、実に多くのことを学んだ」と。
 彼女は、若いころ、器量に恵まれないと思い込み、生涯、独身で過ごそうと考えていたようです。また、社交界でその容貌をからかわれるようなこともあったとも聞きます。
 しかし、人間の真の美しさは、内から発する輝きです。世界の尊敬を集めた彼女の姿は、それを証明しています。
 アタイデ 彼女は、だれからも尊敬されました。彼女が参加していた第三委員会の各委員をはじめ、国連の人々、そして、パリの街角の人々からも。
 当時、彼女がソルボンヌ大学で人権に関する講演を行ったとき、数百人の聴衆が講堂にあふれ、隣室まで埋め尽くしました。しかも、このような人気は夫君の名声によるものではありませんでした。
 彼女は、ジャーナリストとしても立派で、その記事は、純粋で崇高な民主の精神にあふれ、人類の幸福を願う心に満ちていました。世界中の数多くの報道機関で掲載されていました。
 池田 女史は、十八人の人権委員会の議長としてもたいへんに活躍されましたね。
 委員会には、フランスのルネ・カサン博士をはじめ、ベルギー、ノルウェー、ペルー、インド、中華民国のほか、ユーゴスラヴィア、ソ連の代表が選出されていました。
 アタイデ カサン博士は、「宣言」の執筆陣の中で、最も著名な方でしょう。
 「世界人権宣言」二〇周年を記念する一九六八年、彼の「宣言」起草の努力、また、「宣言」の理念を広めゆく行動に対し、ノーベル平和賞が贈られています。
 博士は、受賞のさい、ジャーナリストを集めた席で、光栄にも、「この賞は私一人のものではない。ブラジルの偉大な思想家アタイデ氏と分かちあいたい。それは、二十年前、三カ月にわたって、国連の意向を受けて、彼と力を合わせてなしとげた、偉大な仕事の成果だからです」と述べられました。
 池田 人類の未来のために、ともに闘われた“人権の闘士”の美しき友情に、私も称賛の拍手を送らせていただきます。
 さて、人権委員会での起草作業の中心は、フランス、レバノン、イギリスの代表からなる作業部会で行われ、フランス代表のカサン博士が三三カ条の草案を完成させました。
 このカサン草案が人権委員会で検討され、いくつかの修正を経て、四八年七月に採択されています。そして、同年九月、人権委員会の確定草案が経済社会理事会を経て、第三回国連総会へ提出されました。
 アタイデ 第三回国連総会には、大戦に参加したすべての国の代表が招集されました。参加国はソ連を含め、その政治的見解は、じつに多様でした。

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