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父母の思い出、妻のこと  

「21世紀の人権を語る」A.デ・アタイデ(池田大作全集第104巻)

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1  池田 母上はどのような方でしたか。
 アタイデ 母は音楽好きでした。花をつくったり、リオデジャネイロからくる流行にならって、巧みに裁縫をしたり、手先が器用な人でした。
 当時、ブラジルの人々は外国の文化に従属させられていました。たとえば、フランスは高品質の香水と高価なブドウ酒の供給国でした。また、それまでの密接な関係を反映して、何世紀にもわたる植民地政策の一環として、ポルトガル的教育が提供されていました。
 母は陽気で笑いを絶やさない人でした。芸術家であり、ピアニストであり、詩人でありました。そして、子どもたちを指導する父を助ける人でした。
 池田 これはリオでのスピーチにも紹介させていただいたのですが、かつてアタイデ総裁は、こう振り返っておられます。
 「母をたくましくしたのは、十二人の子どもたちをはじめ、その倍以上の数の孫や、見知らぬ他人の子どもたちを育て、生きる喜びを与えることを、自分の最大の喜びとしつづけてきたからだと思う」と。
 生きる喜びを与えることを、自分の最大の喜びとする――。まことに偉大なる母性の輝きです。
 先ほどもうかがいましたが、父上についてもう少しお聞かせください。
 アタイデ 私の人格形成において、最大の影響は、疑問の余地なく、父からのものです。父は私と兄の教師でした。毎日、さまざまなことを教えてくれました。
 父は、私が神学校に行くことをとても望んでいました。それは私が神父となり、家族を助けるために、一つの教区をもつことを望んでいたからです。しかし、母はそうではありませんでした。母はとても信心深かったにもかかわらず、すばらしい見解をもっていました。「どんな時代にも、アタイデ家の者が神父であったことはありません」と。
 池田 いつも明るく、いつもわが子を心から理解し、育んでくれた母上。そして、わが子の成長のために、厳しくも、深い慈愛でつつんでくださった父上。家庭の大切さをあらためて感じます。
 ところで、お父上は九十五歳、母上は百五歳まで長生きされ、長寿はアタイデ家の財産であるとうかがっております。その秘訣は何でしょうか。
 アタイデ アタイデ家の長寿については、何も秘訣はありません。父は、足一つあげて運動したこともありません(笑い)。たばこも吸っていました。父が死んだのは、当時の医学が遅れていたからです。
 ただ、私の場合は少食です。昼食だけで、夕食は取らず、非常にシンプルで健康的なものだけ食べています。「生きるために食べるのであって、食べるために生きるのではない」。これが私の信念です。
 池田 現代人への警句です(笑い)。ベンジャミン・フランクリンも、まったく同じ名言を残していますね。
 総裁ご自身も、現在九十四歳。今でも一日にコラム二本を新聞に書きつづけ、毎日十六時間働いておられるとうかがっております。総裁ご自身が実行されている健康法、長寿の秘訣があれば教えてください。
 アタイデ とくに健康法などありませんが、私は三つのことに気をつけています。一つは、今、申し上げたように、少欲少食です。二つは、適度な運動をすること。就寝の前に、かならず千回の足踏みと腕立て伏せをします。三つ目は、女性を愛することです。(笑い)
 ともかく、私がこの年齢にいたるまで、同じ目的観をもち、仕事に従事してこれたのは、私の性格からくるものだと思います。
 池田 総裁の生き方そのものが“健康法”なのでしょう。ベルクソンが精神的健康について見事な定義をしています。「行動への意欲をもち、社会生活に柔軟に適合しながら、さらに歴史創造への理想をもつ」と。
 アタイデ 私は政治の世界に入るよう勧められたこともありますが、政治家になりたいと思ったことはありません。大使になるように要請されましたが、大使になりたいと思ったこともありません。
 私は現在、社会に対し、かなり大きな影響力をもっています。ですから、公職に就く必要はありませんでした。それは、私自身の努力によって獲得したものです。
 池田 総裁は、現在のブラジルの偉大な指導者です。あらゆる場所で、あらゆる人から愛され、尊敬されています。
 アタイデ 最近、サンパウロの理髪店で、こんなことがありました。客たちが議院内閣制と大統領制について議論していました。そのとき、理髪店の主人が言いました。「議院内閣制でも大統領制でも、私にはどうでもいいことだ。私が望むことはアタイデ氏が国王になり、ブラジルの面倒をみてくれることだ」と。(笑い)
 池田 庶民の声こそ真実です。民衆の支持を得た人こそ、真の指導者であり、正義の人です。
 仏法には、王制誕生の起源の説話をのせた経典があります。そこでは、民衆の信望を集めた人徳者が、民衆に奉仕するものとして、王に選出されています。この王は「民主」と呼ばれています。「民主主義」の「民主」です。
 アタイデ 一九三二年、初めて政治に関与したとき、私は革命に加わり、逮捕されました。そして、亡命し、三年間の外国生活を余儀なくされました。異文化、他国の法制度、国民の行動様式にふれました。私はヨーロッパのほとんどの国を訪れ、亡命時代に世界がどのようなものであるかを見ることができました。
 池田 偉大な人は最大の苦難のなかで、自分を高めていくものです。ともかく、信念のために牢獄に入った人は信頼できます。これは、恩師から教えられた一つの人間観です。
 創価学会の牧口初代会長は戦時中、時の軍国主義権力によって投獄され、獄死しています。戸田第二代会長も、約二年間にわたり、獄中にありました。私自身も無実の罪で入獄したことがあります。
 ところで、総裁は三十四歳で結婚されていますが、奥様はどのような方でしたか。
 アタイデ 私の青春時代で、最も幸福な出来事は、妻との結婚でした。彼女はたぐい稀な美貌と高い知性をもった女性で、あらゆること、たとえばタイプライターを打ち、図書館司書のごとく書籍、書類を整理・ファイルして、私を助けてくれました。私の保管記録は彼女の情熱の結晶です。彼女はブラジル・ガールスカウト連盟の会長であり、プロ・マテール産科病院の事務局長でもありました。
 私にとって彼女がすべてでした。妻の友人が語っていました。「マリア・ジョゼは、アタイデと一心同体だ」と。なぜなら、妻の口癖は――「私はあなた(アタイデ)が聞きたいことを言い、あなたが望むことを望んでいます」ということだったからです。
 私は五十一年間の幸福な時を、彼女とともに過ごしました。一時たりとも彼女のことを忘れることはありません。
 池田 すばらしい奥様だったのですね。奥様もまた、総裁とともに生きたその生涯は、誇りと幸福に満ちていたにちがいないでしょう。
 奥様は、七十三歳の誕生日を目前にして亡くなられたとうかがっております。今、もしここに奥様がおられたら、どんな語らいになったでしょう。
 アタイデ 妻の死は私の人生で最も悲しい出来事でした。決して打ち勝つことができない大きな打撃でした。私が彼女を忘れることがあっても、それは十分か二十分くらいのことです。
 妻は死の間際まで、私が公的任務をそのまま遂行し、平常どおりの生活をつづけるように懇願したのでした。そうした献身的な彼女を忘れることは決してありません。
 妻の死から八年が経ち、九十五歳に近くなった今でも、われわれの人生そのものであった美しさを、ともに讃えるために、同じ墓所で彼女に会いたいと思っています。彼女の死から後は、私はただこの世での使命を果たすだけです。

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