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日蓮大聖人・池田大作

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第五章 人類共同体に仕える競争  

「世界市民の対話」ノーマン・カズンズ(池田大作全集第14巻)

前後
1  「平和憲法」の意義
 池田 新しい世紀へ、「平和」と「人間」と「国連」をめぐって、カズンズ教授と有意義な意見交換をつづけられたことを感謝しております。
 とりわけ後半、国連の改革強化に焦点をあて話しあってきましたが、このところ国連は、中東情勢の緊迫化にともない、その役割が世界的に注目されています。また、長期の紛争がつづいたカンボジアの和平のために、かつてない大胆な役割を担う方向に動きだすなど、平和への存在意義がクローズアップされてきております。その意味で、非常にタイムリーな対話ができたのではないかと思っております。
 カズンズ 私もまったく同じ思いです。
 池田 これまでは東西対立の状況のなかで、米ソなどは常任理事国の拒否権を発動して、安保理は有効な機能を果たせなくなっていましたが、東西の緊張緩和と協調の新しい時代を迎えて、国連が平和維持という本来の使命を発揮できる状況が生まれつつあり、この事実を多くの人々が指摘しています。
 カズンズ 国連の役割に期待する声が強くなっているだけに、これを全世界的な相互依存のシステム創出に結びつけられるかどうかが問題ですが、私は、国連を真に力ある世界的存在たらしめる改革強化ヘの絶好の機会がきているという気がしてなりません。
 池田会長の問題提起で、この点でも対話ができることをうれしく思っております。
 池田 この対談を締めくくるにあたり、今回は、世界連邦の創出と世界的な法体系づくりへの道筋に関連して、日本国憲法のもつ意義に言及したいと思います。
 日本国憲法は「前文」と「第九条」に明らかなように、懐だ平和主義に立脚し、戦争と軍備をいっさい放棄するとしています。
 そのために「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼し」自国の安全と生存を保持するとの決意も、前文で表明しています。
 この決意を具体化した第九条は、「世界の憲法史上前例のない徹底した平和主義の立場を打ち出している」という評価を受けるに値するものです。
 ところが、この憲法の平和主義に関しても、その制定事情とのからみで、種々の議論が出ており、いまだにやみません。
 制定事情については、当時のアメリカ占領軍のもとにあって国民投票の手続きもとられなかったという、その制定過程に対する批判が多くなされてきました。またその平和主義に対しては、現実の国際環境、国際政治のなかでは、あまりにも理想主義にすぎるという声が出てきております。
 しかし、戦争を廃絶する世界組織を構築していく方向を考えるかぎり、日本の平和憲法は世界に対して貴重な先駆的役割を担う法規であると私は思っています。
 カズンズ じつは四十年以上もまえのことですが、連合国軍最高司令官のマッカーサー将軍から私に、君は日本にいて、占領軍関係の問題にかかわる顧間をつとめないかという話がありました。
 その折、将軍が私に語ったのが、「わが生涯のなかで、このうえなく誇りにしているのは、戦争を非合法化する条項をもりこんだ日本国憲法である」ということでした。そして将軍には、日本が人類史上、戦争行為と戦争手段を放棄する世界最初の国家になったことが、ことに誇りだったのです。
 その日本国憲法の特色のなかで、マッカーサーが歴史的意義をもつものだとして信じて疑うことのなかった点が、さらに二つあります。その一つは、封建制度が終わったことを定めた条項であり、いま一つは、基本的人権に関する宣言、および司法の独立を明文化したことです。
 マッカーサーは、この新憲法は究極的な理想を表現しただけではなく、実際に運用していく諸原則をうたったものとしていました。
 こうした戦争放棄等が日本国憲法にもりこまれたのも、その憲法そのものが制定されたのも、たしかに占領軍の方針下においてです。
 しかし、その将軍が好んで回顧したのは、当時の幣原首相が将軍を訪問してかわした話のなかで、日本のためになり、日本を救いきる最上の道は、国際問題の解決手段としての戦争を廃絶してこそ見いだされるという点で、ともに一致したということでした。「世の人々は、われわれを現実をわきまえない夢想家といって、さぞかし嘲笑することでしょう。されど百年後には、先見の明があったのは、われわれのほうだといわれるでしょう」と首相は述べたそうです。
 マッカーサー将軍は、私にこう述べました。
 「もしも日本が、その憲法を放棄して世界の核軍拡競争の仲間いりをすることがあれば、すでに核兵器を保有している国がいずれも安全ではないように、日本も安全ではなくなるだろう。核軍拡競争に勝つ道がないのは、死に急ぐ心中(相互自殺)への競争には勝つ道がないのと五十歩百歩である。アームズ・レース(軍拡競争)に終止符を打たずば、ヒューマン・レース(人類自体)に終止符を打たれるだろうということを、諸国が認識せねばならぬのは、もはや曇りなきことである。日本国憲法は世界の他の国々にとってのモデルである。だれにとっても、安全へのデザインを提示するものである」
 池田 それは、いみじくも、当時のマッカーサー将軍の面影を彷彿させるエピソードですね。将軍のその言は期せずして、日本国憲法の誕生には占領軍側の強い意向が働いていたことを物語っています。
 しかし「押しつけられた」要素があるにせよ、よいものはよいと多くの人々は考えており、それこそ人類史的アプローチによって、この画期的な憲法の位置づけをはかっていかねばならない。トインビー博士は、歴史を研究するなら世界史を――と訴えていました。未来に開かれた人類史的な行き方が必要なのは、今を除いてはありません。とくに徹底した平和主義が明文化され、最近は形骸化がいわれながらも戦後、半世紀近く存在してきたことの重みをしかるべく評価すべきです。
 今日では、この憲法の精神を普遍化する試みこそ、ますます必要な時代に入っており、時代を先取りした平和憲法は長い目で見れば、世界の安定をもたらす機構づくりにも、大いにモデルたりうる法規だと思うのです。
 カズンズ 同感です。この時代にこそしかるべき時点で、世界に緊張関係をもたらす根本的理由に思いをいたして、科学的に真の平和を形成する機構づくりに向かわねばなりません。その点、現代の世界に関していちばんあきれることは、世界組織の構造上の必要には本気では取り組んでこなかったことです。そもそも国連の発足時に、国連を背後からささえていた一般理念は、国境を超越した諸国の行動のための法規が打ち出せるのではないか、ということでした。この法規の打ち出しが、いまだに十分に明確化されていないのです。
2  世界世論という勢力の台頭
 池田 今、「ポスト・ヤルタ」体制が、時の声になっていますが、思えば、戦後史を形成したヤルタ会談やそれに先立つダンバートン・オークス会議を主導していたルーズベルト大統領の理想主義が、その後、退潮を余儀なくされた記憶が私たちにはあります。
 当時にあっても、スターリン首相の大国主義的発想などがしばしば顔をのぞかせ、虚々実々の駆け引きとなったため、ルーズベルト大統領をいらだたせたというのも、事実でしょう。しかし、ヤルタ会談にのぞむにあたっては、「友を得る唯一の道はみずからが友となることである」(『エマソン選集』2、入江勇起男訳、日本教文社)という詩人思想家エマーソンの言葉を座右の銘としていたルーズベルト大統領の存在と積極的な行動が、国連創出の牽引力になったことは間違いありません。
 西側の現代史家の多くは、大戦後の世界秩序を「冷戦構造」として決定づけて、ヤルタ会談は失敗だったと見なしてきましたが、今「ポスト・ヤルタ」時代、さらには「ポスト冷戦」の時代を迎えてみると、ルーズベルト大統領の積極性にみちた理想主義的な取り組みもふくめ、あらためて見直されるべきかもしれません。
 カズンズ その積極性が、今日では無制限の主権をもつままにきた国家がつくった壁を、いかにして打ち破るかという点に発揮されるべきです。今では国家が、その歴史的役割を演じるにしても、新たな手段を打ち出していく必要があります。「力」があれば、それが国家の安全の基になるということがもはや通じない時代であるなら、「力」に代わる「何か」がそこにあってこそ、人類社会が存続でき、機能していける条件が確立されるでしょう。
 弱い者いじめにあう個人が、あるいは集団もそうですが、無法者に対する場合は、十分な数の民衆がまず団結することです。そしてありあわせの条件をかんがみて、いかに自衛するか、共同の安全のために不可欠な新方策、新手段をいかに確立するかを決めねばなりません。
 こうして存立される新たな力は、最も自然なかたちの力であるべきです。そうなるには、人類の意志が結集されている力、総意の力でなくてはなりません。
 そこから、人類社会の新たな基礎を築く活力が出てきて、はずみがつくでしょう。またこれまでは規制されないままきた「力」をチェックできる手だても出てくるでしょうし、これらのすべてが、諸国の関係や交流においては正義の体系に、司法制度に組み込まれていくでしょう。
 池田 教授は、人類の意志を結集した「最も自然なかたちの力」による安全確保をと言われましたが、それには私も全面的に賛成です。ところで、そうした秩序をささえる普遍的原理、法則として「自然法」「自然権」という考え方があって、ギリシャの昔以来、さまざまな変遷をたどってきました。
 近代には唯物論等からの攻撃もあり、評価されない時代がありましたが、アメリカの「独立宣言」やフランスの「人権宣言」等は、自然法的発想を抜きにしては考えられません。現代でも、否、現代なればこそ、新たな角度からスポットがあてられてしかるべきでしょう。
 過去においても、かのナテスに見切りをつけてアメリカに亡命したアインシュタインが、一九二四年(昭和九年)の段階で、日本の雑誌に論文を寄せ、戦争や暴力、破壊、恐怖といった第一の道ではなく、新しい第二の道である国際秩序による「平和的決定の道」を訴えております。
 すなわち「第二の道に対してはまだ諸国民の意識は熟していません。諸国民は言い難い苦悩と、言うべからざる悲哀にまだまだ耐えなければならないのでしょう。諸国民が自由意志をもってその主権の一部を放棄して、十分に強力な国際執行権力を創設し、国際裁判所を成立せしめ、その判決の実行を強制するまでに熟するにいたるまでは」(金子務『アインシュタイン・ショック②』河出書房新社)――と。
 私は、アインシュタインのような国際的、ひいては宇宙的な広がりをもつ人格であってこそ、現代における自然法的発想を生かすことができると思えてなりません。
 この半世紀あまり、人類はじつに「言いがたい苦悩と、言うべからざる悲哀」をなめつくしてきました。アインシュタインの先駆的発言がうながしているように、もうそろそろ成熟しなくては、人類史の舞台は暗転していくばかりであることに、気づかねばなりません。
 カズンズ その意味での成熟が、まさに必要です。それには超克すべきパラドックス(逆説)がともないます。かつては国家が個人に保障していた安全を、こんどは国家を超えた「何か」が保障するように、その「何か」を個人は創出したいのですが、実際にこれを創出するにあたり、個人が有する唯一の手だては、やはり国家です。国家それ自体なのです。個人がよって立つ確かな足場は、国家の内にしか見つからない。ゆえに、この自家撞着を超克し、国家の外にいながら個人が有力になれるには、いかにすべきかという問題に帰着しますね。
 発想としては「国家を超える自然法」という考え方があるように、「国民を超える自然意志」という考え方があってもいいでしょう。
 今、世界に出現しつつある勢力は、世界世論という勢力です。この勢力は今のところはまだ、正式な表現の回路も機関ももちえてはいません。にもかかわらず、これは進展しつつある新たな力であり、ますます世界の人々の耳柔にふれるものになりつつあります。
3  「第二世代」の人権思想
 池田 国家を超越したところに法の秩序をさぐりあて、それによって平和や人間の尊厳を守ろうとする動きは、萌芽のようなものですが、たしかに見られます。たとえば、「世界人権宣言」や「国際人権規約」等がそうです。「ジェノサイド条約」なども集団殺害を、平時、戦時を問わず、国際法上の重大犯罪としております。
 国際司法裁判所の決定が強制力をもたない点などは、いまだ道遠しの感もありますが、かといって、そのような機関をまったく無視し、世界世論を敵にする、あからさまな武断主義に走ることは、もはや自暴的な行為になっています。最近の軍縮の流れは、その背景に反戦平和の世論の力があったことを忘れてはなりません。
 カズンズ 世論はまた国家内でも、何が正義か、何が道義的争点で最重要かといった問題にかかわるときに、その力を最大に発揮します。同様に世界世論も、道義が問われたり、人命の安全を守る理性的手段にかかわってくる大問題では、人々にその力強さを感じさせることができます。
 自由主義社会の個人にとっては、国家のことのみには終わらない大義に行使される自由ほど、意義のある自由はありません。かかる社会の個人は、国家内の総意を形成するために国家内のその足場を活用できます。
 それがおよんでは、その国家をして、秩序ある国際社会を形成していく運動に参加せしめ、効果をもたらすような総意へと発展させていくこともできるでしょう。
 池田 その点、アメリカは哲学界が中心となり「正義論のルネサンス」と呼ばれる現象が起きているということも聞いています。何が正義かという問題も、プラトンの『国家』の副題が「正義について」であるように、人類史の永遠の課題です。イデオロギーの終焉にともなう価値観の混迷は、最近のソ連の青年たちの世論調査で、共産主義の未来を信じている者が八パーセントにすぎなかったという事実に見られるように、洋の東西を聞わず起きる世界的現象のような気がします。
 何が正義か――この点で、世論が力を発揮するというご指摘に私も共鳴します。民衆への信頼なくしては、新しい世界秩序づくりは望むべくもなく、もしつくられたとしても、それは砂上の楼閣のようなものだからです。民衆世論は、仮に一時的な錯誤をおかすことがあっても、長い目でみれば、また正しい情報が与えられれば、おおむね正しい方向を選び取るものです。
 教授とは知己のジョージ・ケナン氏の古典的名言に「デモクラシー・ファイツ・イン・アンガー」(「民主主義は、怒りのなかでは闘う」の意)とあります。これは正義、不正義という道義の問題に敏感なアメリカの世論の力と志向性を端的に言いあらわした言葉と思います。民衆の声がグローバルな広がりと連帯をもつことこそ、新たな世界秩序形成の主要な条件です。
 今日では、道義性の核ともいうべき人権感覚の広がりは顕著です。自由権的な基本権を中心にした「第一世代」、そして生存権的な基本権を中心にした「第二世代」の人権思想に対して、平和や環境等で国際的連帯を不可欠とする「第三世代」の人権思想が、今や世界の潮流になりつつあり、新たな世界秩序へ向かうグローバリズムの台頭を予感させていますね。
 カズンズ 実際、そのグローバリズムが民衆のなかから澎湃としてわきあがり、世界の主潮流となっていかねばなりませんね。
 その一方、民衆の総意のもとに国家が秩序ある国際社会を形成していく運動に参加するのは、国家主権の解消を意味するのではないか、との反問が出てきましょう。
 それに対しては、かならずしもそうではないと言うべきです。なぜなら、結果的にそれは、国家主権のなかでも絶対主権の解消のみを意味するにちがいないからです。
 つまり国家主権といっても、絶対主権と相対主権との二種類があるからです。
 絶対主権の特質は、次のように要約されるでしょう。すなわち、世界の紛争や問題に関する件で世界機構が強制的な管轄権を発動しても、国家はそれに従わない。
 また、国家はその軍事方針を世界機構にはゆだねない。また、国家は、世界法のもとにあっては国家の唯一の頼みのつなは国際司法裁判所であるのに、世界法の法体系づくりには事前には応じない。要するに絶対主権というものは、国家が条約を建前にした話しあいには積極的でも、情勢のいかんによっては撤回権を主張するということを本音としているわけです。

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