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日蓮大聖人・池田大作

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第四章 迫られる「国家観」の変革  

「世界市民の対話」ノーマン・カズンズ(池田大作全集第14巻)

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1  国際政治の現場に立って
 池田 これまで、国連の改革強化の具体策を話しあってきたわけですが、国際政治の現場に身を置かれたことのある教授ですから、さぞかし国家の壁の厚さをいくどとなく実感してこられたと思います。それでもなお遠大な目標と理想の実現のため若々しい情熱をもって語られ、しかも熟成された思考を繰り広げられる教授の言行に、あらためて私は感銘を深くしております。
 カズンズ 国際問題における二点間の最短距離は、迷路であることが多いのです。そういう現実をよく理解し、問題解決のため実際に行動する政治哲学の人が、池田会長もお会いになり、対話されたヘンリー・キッシンジヤー氏です。彼は理想主義者らしくふるまうことはありませんが、理想主義者と交わることはいとわない人物です。理想主義者は、彼のもとへ手助けを得るために行き、彼はしばしば、その人々に援助の道を見つけました。
 私も一九六九年のことですが、ナイジェリア内戦で苦しんでいたビアフラの人々への医療援助計画にかかわった時に、キッシンジヤー氏に援助を頼みました。それというのもナイジェリア内戦の交戦地域に食料や医薬品を輸送するため、アメリカ国務省から協力を得ようとしたのですが、うまくいかなかったからです。
 その折に見せたキッシンジャー氏のやり方は、とてもみごとなものでした。私の見るところ彼の才能は、たとえば対中国政策で示したように、諸国間の新しい関係を樹立するために意見の一致を生みだす「技師の才能」だと思います。彼は、彼自身の言うような方向を選択することが、人々の要求と目標ヘ現実に進むことになると認めさせることができる人物です。
 池田 私がキッシンジャー博士に会うまえに感じていたのも、そのことでした。
 博士は、新しい外交のパターンを使いましたね。世界の状況は、決して固定することはありません。むしろ現在のソ連情勢、東西欧州情勢、また中東情勢に見られるように、変化のスピードはいちだんと増していると見るのが正しいのではないでしょうか。それはとりもなおさず、既成の発想にしばられることなく、巨視的な見地から大胆なアプローチが必要なケースが多くなっていることを意味しています。
 カズンズ そうしたアプローチに、いわば最高の科学と同じくらいの厳密さと集中力と熟練とがともなうならば、なおのこと望ましい結果を生みだせるでしょう。われわれ人類は現在、まさに大きな決定を迫られています。そうした危機の真っただ中にいるのです。
 われわれ人間が変化への能力をそなえているか否か――そのことが問われている今日ですが、人間ほど順応力と可変性をそなえた生物はいないわけで、われわれは「変化への能力」を十分もっているのは疑うべくもありません。
2  「閉ざされた意識」を脱却
 池田 一九九〇年七月に訪ソしたさい、ゴルバチョフ大統領は私に「核のない世界を築こう、暴力よりも対話を――と提唱したとき、多くの人々は『ユートピアだ』と笑いました。けれども、見てください。今では、それが現実になろうとしているのです」と語っていました。
 人間は「変化への能力」をもっているという意識の変較が、万般にわたって必要なのではないでしょうか。
 たとえば、日本の歴史でも固定観念というものがいかに変化してしまうか。その一つの示唆を私が見いだすことができるように思うのは、十九世紀後半の幕末から二十世紀初めにかけての、明治期における統一国家への歩みです。
 ご承知のように、徳川期の幕藩体制下にあった、かつての日本人にとっての「国」とは封建制度の「藩」のことにほかなりませんでした。藩が行政、警察、司法、外交等にわたる主権を有しており、人は藩の許可なくして藩外に出ることは許されず、藩は当時の人々にとって、絶対的かつ閉鎖的な生活空間でした。民衆の意識も、ごく例外的な人たちを除くと、ほぼ三百年にわたり、その生活空間のなかに閉じこめられていたわけです。
 しかし、そうした閉ざされた意識も、幕末から明治への近代日本形成の過程で、激変を余儀なくされました。ここに「余儀なく」というのは、かならずしも自発的にそうなったのではなく、西洋列強による外圧、くだっては自国政府による国家主義的イデオロギーの鼓舞という意図的な要因もあったからです。
 それにくわえて明治期になってからも、旧態依然として藩意識に根ざした藩閥政治などがあり、日本人の意識が実際にどの程度変わったのか疑問視する向きもありますが、なんといっても「藩」から「国家」への意識変革が短期間に、しかもドラステック(劇的)に起きたのは否定できません。
 このことから読みとれるのは、直接的な教訓というよりも、むしろ示唆なのですが、長年の障壁だからといって、これからは民族意識の閉鎖性を打破することのむずかしさを、あまり強調しすぎてもならないと思います。それは往々にして、自己の心の閉鎖性による場合が多いからです。
 教授が提示されている国連改革強化案も、世界の諸国民が、世界観を従来の国家中心から地球規模ヘと変えていくための重要な提案と思います。
 カズンズ そこで、国連改革強化の重要点としては、安保理事会を改組して「執行理事会」にする必要があると思います。
 その主な役目は、総会の意向を実行し、総会の議決を施行することです。この執行理事会の議長と副議長の選出は、理事会自体がおこなうとし、総会に承認されねばならないとします。
 軍縮会議をはじめ、国連の各専門機関――世界保健機関、食糧農業機関、国際復興開発銀行(世界銀行)、難民高等弁務官事務所等は、この理事会の管轄内に入るものとします。当理事会とその諸機関の運営予算の計上は、総会の審議にかけ、総会はその充当権および監査権をもつものとします。
 なお、この執行理事会は決議権も拒否権も、それ自体でもたないようにするところも、前身の安保理事会とは異なるべきでしょう。つまり立法機関ではなく、国連の中心的執行部門にすべきでしょう。あくまでもこのような部門として立法への勧告はできますが、法規の制定や再審査はできないものとします。総会による立法措置についても、執行理事会による施行活動についても、司法審査権は世界裁判所に帰属するものとする。こういった案を私はいだいているのですが。
 池田 総会と安保理事会を改めた執行理事会を、そのように有機的に結びつけていくのは国連の現状である跛行的性格を是正していくうえで、まさに傾聴すべき意見と思います。いずれにせよ、その根底にはやはり国家観の変革、ナショナリズムに対する意識変革が迫られるわけです。
 E・H・カーも、つとにその著『ナショナリズムの発展』(大窪憲二訳、みすず書房、参照)でこのことを述べました。彼は、西洋におけるナショナリズムの発展段階を三つの時期に分け、さらに第四の時期の到来を示唆しました。
 第一期は君主のナショナリズムであって、主権者たる君主が「朕は国家なり」といったルイ十四世のように、ネーション(国家)の代表のごとくふるまった時期であり、フランスの場合は大革命とナポレオン戦争をもって終わったとされます。第二期はブルジョアジー(有産階級)のナショナリズムであって、主に自由民主主義ないしブルジョア民主主義の枠のなかで動き、これはフランス革命に始まり、一九一四年の第一次世界大戦の勃発までつづきます。そして第三期が、いわゆる大衆のナショナリズムであるとされています。
 このようにカーは、西洋のナショナリズムの流れを、政治集団としての「ネーション」に対する見解の推移に即してとらえました。さらにカーは、第二次世界大戦で勝利した主勢力の米ソ両国が民族的ではない国名と多民族的性格をもつ国家である点に着目して、「古い分裂繁殖的ナショナリズム」は、もはや時代遅れになるだろう、つまり「第三期」までとは異なった「第四期」の段階が到来するだろうと予見しました。
 この書は一九四五年に公刊されたものですが、第二次世界大戦をへた人類が到達すべき段階として現実の彼方に、人類全体を一つのネーションとして大国も小国もない、ゆえにその意味では、国家中心の集団的利己主義がはばをきかすことのない世界へと向かう意識革命の可能性を、カーは望見していたように思われます。
 教授の国連強化のための改革案は、このカーの言う人類の到達すべき「第四期」を先取りされた構想のように感じられます。
 いよいよ、カーがはるかに望見した、こうしたナショナリズムに対する意識変革の時代に入った今、新しい時代に即応した国連のあり方を志向しつつ、「総会」「執行理事会」「国際司法裁判所」などの各機関を理想的に機能させていく方向を考えるべきときではないでしょうか。
3  「国際法」から「世界法」ヘ
 カズンズ 国連強化案として、さらに先取りした構想であって、最も包括性に富むのは、グレンヴイル・クラークとルイス・ノーンが提唱した案だと思います。
 この両氏の共著である『世界法による世界平和』(ハーバード大学出版局)は、全面軍縮を実現し、平和を維持できる世界機構に国連を発展させる案を提示しています。その過程に介在する諸問題も、ことこまかに分析しています。
 これは、国連憲章の改正、改正点の立法化、および施行化のための予定表を具体的に示しています。とともに、全世界的な軍縮を段階的に実現していく段取り、それと同時並行的に国際警察力を強化し、その乱用を完全に防止する案も、具体的に示しています。
 国連に「世界法」にもとづく権威、権限、機構、機関をそなえさせる具体案が示されると、それにはことごとく反対する勢力が出てきますが、その主たる勢力はおよそ二つの陣営に属しています。その一つは、あらゆる国が受け入れる案ではないだろうという懸念があるかぎり、国連強化に対しては、いかなる試案にも反対するという陣営です。もう一つは、すべての国に機会が与えられ、すべての国が受け入れられるなら、国連の世界連邦化には反対するという陣営です。
 ある意味では、両陣営は共通点が多いのです。はやい話が、法にもとづく統治の本質と目的を、いずれの陣営も認めません。世界連邦というかたちをとる統治は、これに加盟する国をえこひいきするのが目的で組織されるものではないからです。そしてまた、加盟しない国を制裁するのが、その主たる目的ではないからです。
 世界連邦というかたちをとる統治の目的は、共同の安全のために諸国間で義務を明確にし、履行していく理性的な、公平な、実行可能な道をつけることにほかなりません。これに加盟するのが望ましいか望ましくないかという問題は、この機構がリーグ(連盟)、もしくはコンフェダレーション(同盟)である場合にのみ起きてくるでしょう。
 その理由はすでに述べたとおりですが、リーグもコンフェダレーションも独自の権威が欠如するため、いざという時には、かたくなに反対するか妨害する加盟国に牛耳られかねないからです。
 しかし連邦には、妨害する加盟国がいても、それには対処する独自の手段と方策がないのではありません。
 というよりもじつは、加盟国の間には自然な、あるいは不自然な論争がつねにあるだろうということを仮定してかかり、連邦の主たる役目はその種の論争が決裂して戦争になるのを防ぐことだとすれば、そこにこそ、世界連邦というかたちの統治体の存在理由があります。
 池田 ですから、現代の文明が発達して、諸国が緊密に結びついていく世界になればなるほど、国家の主権を制限する「世界法」がいよいよ必要になってきます。ところが、まさに必要な「世界法」に対するに現在の「国際法」は一種の前例、慣例ではあっても、紳士協定のようなものにすぎず、たとえば、国法が国民に対してもつような強制力を国家に対してもってはいません。
 したがって、ある国が他の国に無理非道を押しつけ侵略をおこなったとしても、それに対する拘束力は現在の「国際法」にはありません。こういった弱点は、国家間の事件を国際司法裁判所の裁定にかけることが、関係国双方の合意がなければできないところに、端的にあらわれているといえるでしょう。
 しかし幸いなことに、一定の種類の事件に関しては、かならず裁判にかけねばならないとする条約が、多国間において結ばれるようになってきています。こうした発展も、まだまだ国家間の利害をめぐる国家意思に左右されるものではありますが、それでも世界連邦的な統治体のもとで執行されるべき世界法への道をひらく方向に、一歩踏みだしたものといえるでしょう。そうした一歩としては歓迎したいと思います。
 将来、世界法が制定されるときが来れば、今の国際法は、あたかも道徳や慣例が国家の法律の土台であるのと同じ役割を担うことになるでしょう。かつての帝国主義的な砲艦外交が通用しなくなるとともに、国際法を重んずるようになってきた軌跡に照らしても、世界的な法体系をつくる時代が到来すると思います。
 そのために人類は英知を結集しなくてはなりません。力ではなく法による秩序を生みだす手段をもたなければ、いつまでも人類は宿命的な流転を打ち破る光を見いだせないにちがいない。その意味からも、国連の強化と充実、そして発展が志向されねばならないことは明白です。

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