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日蓮大聖人・池田大作

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第三章 「部分」と「全体」の調和  

「世界市民の対話」ノーマン・カズンズ(池田大作全集第14巻)

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1  超克すべき「国家悪」
 カズンズ 昨年(一九八九年)以来の世界の激動は、自由主義の画期的な勝利を印象づけました。これを最も特徴づけるものは「民族の自主独立」という潮流です。
 されど、私たちの時代における自主独立は、相互依存の世界システムによらなければ、維持できるものではありません。全体主義からの離脱は、共同の諸問題に共同の解決法をもって対処できる新たな構造を必要とします。
 池田 安全保障の面でも、主権国家同士がそれぞれ軍事力を増強し、軍事同盟を強化していく方向性は、まったく時代遅れになっています。これからは、むしろグローバルな相互依存の構造が要請されるとのご意見に、私も賛同します。それは、グローバルな「不戦」の構造の確立をも意味します。時代の風は、まさにその方向に吹き始めています。
 カズンズ 今では完全な主権国家は、かつて歴史的に存在理由のあった国家とは別個の存在と化しています。完全な主権をもつ国家でも、その市民の生命、諸価値、財産を守ることはできません。それだけではなく、完全な主権国家そのものが、生命と創造の自由に反し、実際、有害な存在になっています。
 池田 そうなった事例は、歴史的にもこと欠きません。近くは八九年、東欧に同時多発的に起きた民主化、自由化への激動は、そうした「国家悪」に対する決起という側面が見られます。
 もはや民意を無視したものは受け入れられなくなっています。
 カズンズ 個人の側からいえば、今日の世界にあってはもはや国家をあてにして、わが身の安全保障を頼むわけにはいかなくなったのです。外国から侵略されたり強襲されても、国家は個人を守りきれないのですから。その国のまわりの海がどんなに広くても、その国の防衛がどんなに手強く周到であっても、その国の民は一撃必殺の急襲にしてやられる状況になったのです。しかも突然に。
 もちろん、報復力をもった国はありますが、その報復力を実際に行使すれば、自分自身が襲われるというかたちの交戦になりかねません。武力は、今日では生存を可能にする繊細にして微妙な条件を、危ういものにしてしまうからです。
 池田 まさにその意味で、核時代は、絶対主権国家の存在理由を根底から揺るがしております。西ドイツのヘルムート・シュミット前首相が、最近の発言のなかで「私は、国民国家がいかなる固有の社会的、経済的、政治的秩序をうち立てようとも、来世紀の問題はこれによっては解決しないと考えている」と述べていますが、これは多くの人の実感だと思います。いうなれば、十七世紀以来の国民国家体制そのものが、根本的に問われているような気がしてなりません。
 カズンズ 私もそう思います。むろん、国家にも、それなりの権利はあります。たとえば大義のためにはやむをえず人柱を立てる権利、つまり国民の防衛のため人命を犠牲にする権利はあるでしょう。しかし、生命自体が存続できる諸条件を攻撃の目標にしてもいいという権利などは、まったく国家や為政者の政治的権利にふくまれてないはずです。
 核戦争は、敵対する国家同士が対決しあうだけの戦争ではありません。核戦争は、生命自体の存続を可能にする自然の生命的バランスさえも破壊する戦争です。
 池田 もちろん「主権国家」を一方的に「悪玉」あつかいにはできません。すでに申しましたが、主権国家の成立過程には、その存在が「防衛的」「自立的」な役割を果たしたという側面が当然ありましたし、この歴史的事実まで否定するのは正しいことではないと思うのです。
 しかし、主権国家はその本性上、必然的に「権力の魔性」を内在させており、この魔性はこれまたその本性上、必然的に民衆を支配下におき、抑圧しようとする傾向性を有してきたという点だけは見逃してはならないと思います。
 科学技術の長足の進歩がもたらす兵器の破壊力、殺傷力の増大は、そういった傾向性をはらむ主権国家の危険性をグロテスクなまでに肥大化させてきました。なかでも、核兵器をめぐる状況は、ソ連のゴルバチョフ大統領をして、「階級的価値」から「人類的価値」へ優先順位を逆転させる「新思考」外交をとらざるをえなくさせるほど、のっぴきならぬものでした。
2  第三世界諸国の発展と安定化
 カズンズ ゴルバチョフ大統領のイニシアチブ(主導権)に最も象徴される出来事も、歴史の論理が、自己主張をしている過程の一部にあたるものと私は見ています。話を米ソ関係の改善という具体的な点に移せば、これまでにも種々の「緊急策」が提案されてきました。
 しかし本当に必要なのは、両国間でやりとりする議論において態度や語調が改まることではありません。そのほうも改めながら近づきあうのはむだではありませんが、本当に必要なのは、両国が適合しうる世界組織であって、それも実際に力のある機構です。
 ですからまた、大事なことは一方が他方に何を言うかだけではなく、永続性のある平和を組織するために、言葉に行動のともなう提案をいかにするかでしよう。
 われわれのきわめて明らかな、相互的にして究極的な目標は、核兵器を廃棄することだけではなくて、戦争そのものを廃絶することでなくてはなりません。軍拡競争に終止符を打つのは出発点であり、それがめざすべき到着点でないことは、もちろんです。
 池田 大きな一歩が踏みだされましたが、それはあくまでも歩み始めたということです。もはや大国間の戦争は遠ざかった状況になっていますが、依然として第三世界での紛争がなくなりません。そのため、第三世界諸国の軍事費の増大が、自国内の経済の発展を阻害するという悪循環を生んでいます。
 その種の紛争の火種を先進諸国が消す方向にまわり、第三世界諸国の経済の発展と安定化をはかるなら、全体として地球社会の未来は、ずいぶん明るくなるにちがいありません。
 カズンズ 経済の発展は、とくにアジアとアフリカでの発展が、国連の世界連邦化へめざましい機会をもたらすはずです。
 しかしながら、この両地域の国々の多くは今のところ一世紀余にわたる他国の支配から脱皮している最中にあるということ、またその当事国からみて、国内の発展と統制という、その国自体の諸問題への干渉と思われるようなことは何事もしてはいけないという点が、よく認識されねばなりません。
 したがって、ここで確認すべきことは、個々の国家に対する経済、技術、科学上の援助の申し入れは、その当事国自身の要請によって初めてなされるべきであるという点でしょう。
 そうして援助がなされる場合も、それぞれの開発事業が、当事国の独自の文化、制度、体制と調和をたもっていくような仕方で進められるとともに、その当事国自身の施設、設備、人材が十分に活用されるように、最大の心くばりが必要です。
3  「多国間援助」の進展に向けて
 池田 国連はその創設当時から、平和維持とともに発展途上国の開発援助を、その活動の大きな柱としてきました。実際、開発の資金協力の面では世界銀行が、技術協力の面では国連開発計画(UNDP)が中心となり、総会はもちろん、部門別には経済、社会、文化等の数多くの専門機関が、それぞれに活動しています。
 そのなかでも、とりわけUNDPは、国連食糧農業機関(FAO)や国連教育科学文化機関(UNESCO)や国連工業開発機関(UNIDO)等に、その一元的に集めた資金を振り分けております。政治的には中立です。援助のさいに与える助言は、当事国の自立を重んじ、その質も普通麟な開発援助をめざしています。
 それにくらべると、先進国から途上国への二国間援助の場合は、発展途上国自身のニーズをあまり反映しない政治性や、その他の要素が入りこみがちになります。
 その点は、国連を中心とした多国間援助のかたちのほうが、当事国の独自の文化、制度、体制とも、合致しつつ、その国の人材と資源を十分、活用するような開発援助がおこなわれやすい、と私も思います。
 しかし残念ながら、国連を中心とした多国間援助は、現在のところ二国間援助よりも、まだまだ少ないといわざるをえません。ですから、援助の性格と効率の問題をも考えあわせて、より望ましい多国間援助が進展するよう、世論を高めていくことも大切です。
 カズンズ おつしやるように、すでに国連はその機構内に、多くのすぐれた機関をそなえており、その分野も世界保健、食糧、難民問題、教育、科学などにわたっていますが、それらの機関が有効な活動を展開していくには、二つの事柄がじつは障害になっています。
 その一つは、部門別のこれらの機関に実際の権威がともなわず、必要とされている活動計画を実行していく十分な手段もないということです。障害の二つめは、諸国の大半が、その活力と資源のほとんどを軍事目的に振り向けている点にあります。国連のこれら専門機関に権威と手段をともに完備させれば、機関自体が世界の人々の生存状態をよくしていくのに大いに役立つということを明らかにしうるでしよう。
 これらの機関はもちろん、直接的には国連の立法機関に対し責任があり、また立法機関によって設立されたものです。
 権威はいったいどこにあるべきか。総会にでしょうか。安全保障理事会にでしょうか。
 まず総会についていえば、その現在の形態によると諸国は、人口が大きな国も小さな国も対等な地歩を占めており、こうした現状にある総会に重要な権限が与えられるのを大国が望ましいとするとは考えられない。
 それに対し、安保理事会は、大国が運営していて、しかも全会一致の原則にしばられている。ということは、大国のかかわりあう重大な懸案に法の遵守を厳格にしながら決着をつけようとしても、大国が拒否権を行使することにより法を否認しますから、現在のところは決着がつけられないということになります。
 では、総会と安保理事会の権威のあり方を決めなおそうではないかとなると、そういう試みはすべて、代表権と権限割り当てをそもそも間わねばならないことになります。
 代表権については人口数による平等制一本で決めるということになると、二、三の人口大国が票決を圧倒的に支配できるでしょう。一国一票制を続行していくということになると、総人口がたぶん二千万の小国家群が少数派でも、総人口七億五千万あるいはそれ以上の国を票決では打ち負かしうることになりかねません。
 この問題がおそらくいちばん手のつけにくい問題でしょうね。代表権なくしては権威がない、しかし現状のもとでの代表制では、そもそも代表権ではありえないと思われます。

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