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日蓮大聖人・池田大作

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第四章 首脳会談と民間外交  

「世界市民の対話」ノーマン・カズンズ(池田大作全集第14巻)

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1  「人類」という発想に立ち
 池田 三年ぶり(一九九〇年一万)にロサンゼルスでお会いでき、本当にうれしく思います。
 教授との対談は日本で大きな反響を呼んでいます。教授のヒューマンな行動、また核廃絶へのご意見には、広島、長崎の方々をはじめ多くの知識人、青年たちから、共感の声が寄せられました。
 カズンズ 私も再会の機会にあずかり、こんなにうれしいことはありません。日本での大きな反響ですが、それは対談の相手がすばらしいからです。話を巧みにリードしてくださった結果と感謝します。
 池田 とんでもない、謙虚なお言葉に恐縮します。
 カズンズ これからもよく連携をとりあって、対話を進めていきたいと願っております。
 池田 今回は「首脳会談と民間外交」というテーマで語りあいたいと思います。教授は、かつてケネデイ大統領の特使として、単身訪ソし、フルシチョフ首相とひざ詰めで会談するなど、国際的舞台で活躍された経験をもたれています。
 公私にわたって、米ソ関係の改善に尽力してこられ、昨今の大きな変化にはさまざまな感慨があると思いますが。
 カズンズ ええ、そのテーマについては、これまでいろいろ考えるところがあり、私なりに行動もしてまいりました。
 池田 昨年(一九八九年)は十二月にマルタ沖で米ソ首脳会談が開かれ、長くつづいた冷戦に終止符が打たれました。ボツダム体制から新たな時代への移行ということで、八〇年代を締めくくるにふさわしい首脳同士の対話になったと思います。
 私はかねてから世界の平和を願う一市民として、機会あるごとに米ソ首脳会談の重要性を訴えてきましたが、一九八五年(昭和六十年)にジュネーブで開催されて以来、米ソ間の対話は軌道に乗り始めました。
 本年九〇年に入ってからも、六月の首脳会談が決まっており、いかなる前進がもたらされるか、人々の期待もさらに大きくなっております。むろん前途には越えなくてはならない課題が多くありますが、″継続は力なり″をモットーに、十分な成果をあげるまで、ねばり強い努力がかさねられることを念願しております。
 カズンズ マルタの首脳会談の最も重要な点は、長い冷戦関係を終わらせるために、米ソの首脳が会い、その幕引きをしたという事実にあります。ブッシュ米大統領が、レーガン──ゴルバチョフ間の良好な関係をそのまま継続させた意義は大きいと思います。
 池田 首脳同士が直接会って意見を交換するのは、直接的な政策面への影響だけでなく、何よりも米ソ間に根強く存在している不信感を取り除く契機となるでしょう。そしてこの不信感の除去こそ、長期的にみて、軍縮を可能にし両国間の関係を実りあるものにする、土壌づくりになるのではないでしょうか。
 カズンズ 私もそう思います。厳しくいえば、米ソはおたがいのことのみに忙殺されすぎていました。徐々にいい方向に進んではいますが、大戦後の両国の間柄は、あたかも二人のナルシスト(自己陶酔者)が相対しているのに近いものでした。そうした間柄には両国の対立に介在する問題さえ解決できれば、世は事もなし、といった自己満足の気配すら感じられました。
 たしかに、米ソは相互の間に問題があります。その解決のために、なしうることは何でもなさねばなりません。けれども、今までのやり方だけではいけません。世界自体が多事多難ですから、超大国といえども心を一つにしてあたるべきです。この点は、明らかに欠けていました。
 他の国々に呼びかける場合でも、米ソはバラバラに競いあってきましたが、自分だけに都合のいい話を聞く耳は、世界はもちあわせておりません。みなが耳を澄まして待っているのは、米国とソ連がたがいに力を合わせ、環境悪化、大量飢餓、難民等の地球的諸問題を解決するために、何をなすつもりなのかというニュースです。
 池田 そうした傾向におちいってきた最大の悪因は、やはり米ソの長い間の二極構造にあったと思います。
 世界が不安定な状況であるにもかかわらず、″米ソによる平和″(バックス・ルッソ・アメリカーナ)といった状況がつづくと、自分たちが世界の平和をとりしきっているような錯覚におちいりやすかったのではないでしょうか。その結果、本来なすべきことの本質が見えなかった。
 しかも、米ソの権力は、世界の大部分の核を独占してきただけに、なおのこと不気味さをもたらしてきました。核保有国の指導者を、核兵器という″剣″の下で戦々恐々としている現代の″ダモクレス″にたとえたケネディ大統領のような政治家でも、その呪縛から逃れるために、何をなすべきかという具体的展望が、見えていたかどうか。むしろ、細い糸で頭上に吊り下げられた″ダモクレスの剣″の脅威のほうが、念頭を占めていたのではないかと思われてなりません。
 カズンズ 何をなすべきかというなかには、全地球的な次元や観点で、一つ一つの問題に答えを出していくことが、前提になければなりません。
 ですから、軍事と国家が密着したテロ行為の問題に対応するのはむろんのこと、局地的な紛争、それぞれの社会の不公正などの諸問題に取り組むのが大国らしいあり方だと、私はそこまで言及したいのです。
 現に脅かされているのは、私たちが共々に住んでいる地球の安全です。この安全がまず確保され、人間らしい生活が健全にいとなめるようにしなくてはなりませんね。米ソ両大国がにらみあう視線を、この大問題に向けることができるなら、それだけでも大きな変化というべきでしょうし、その場合にはいろいろな可能性が生まれてくると思うのです。人類共同の安全保障が推進されるにつれ、大国間の安全保障も確実なものになります。この大筋でいくなら、今後の首脳会談には十分な可能性がふくまれていると思います。
 池田 ようやくにして米ソは大筋として、その方向に向かいつつあるといえるのではないでしょうか。
 なんといっても、ソ連にゴルバチョフ大統領が登場したことが大きかった。国内事情もあるでしょうが、「新思考」のスローガンのもとに、全地球的な発想で軍縮政策を次々と打ち出してきたことが、世界に大きなインパクトを与えました。
 カズンズ ゴルバチョフ大統領のグローバルな思考は、歴史的に正しいものです。しかしソ連国内の民族問題のゆくえがどうなるか、たいへん心配しております。もしこれをうまく乗り切れるなら、米ソ関係はさらに前進するでしょう。
 池田 それと、八七年末のワシントンでの首脳会談で調印され、引きつづきモクスワ会談で発効にいたったINF(中距離核戦力)全廃条約の意義も大きかったと思います。
 なかでも、この条約に盛り込まれた相互査察についての合意は、今までの否定的な考え方を根本的にくつがえしたからです。
 この査察は、武装権という、国家主権に直接かかわる問題です。
 主権国家の権限が相対化されていく流れは、十七世紀にウェストファリア条約のもとに主権国家の枠組みが固まって以来の、まさに画期的な出来事といっても、過言ではないでしょう。
 私は、こうした米ソ首脳会談での一連の成果を、超大国の首脳が″核状況″下において主権国家システムの限界をようやく認識し始めたという象徴的な事例とみたい。そして首脳会談が端緒となり、「国益から人類益へ」「国家主権から人類主権へ」という発想が、全世界の共通認識として定着していくよう望んでいます。
 カズンズ そうした望ましい方向に、ぜひ進んでほしいものです。
2  「国家の顔」から「人間の顔」ヘ
 カズンズ これまでは、世界が重大な難局にたちいたったときだけ、やむをえないので首脳会談の開催を――という要請できたわけですね。とにかく権力の最高位者を同じテーブルにつかせることができれば、恒久平和の基礎も固められるだろう、という思いが一般にもありました。
 しかし今日では、地位のうえで最高の人物を会談させるだけで、事たりるわけにはいかなくなりました。それだけでなく、思想のうえでも最高の人物を結集して、会議を開かなくては十分でありません。
 私たちが求めている平和は、どこかの山に入って、魔法を習ってくれば、見つかるだろうといった安直なものではありません。そうではなくて、高遠なる理想と目的を実現することのなかに得られるもの、それが現代に不可欠な平和です。
 そして、このような会議への参加者の信任状ですが、これにはただリボンをかけ、肩書を麗々しくうたってあるだけではなく、内実に能力がともなっていなくては、いかんともしがたいでしょう。この地球に人々が住みつづけられるように、あらゆる国でまったく新たに人間的な生き方を創出していく英知がともなっていないと、これまた、いかんともしがたいと思います。
 池田 私も、首脳会談には、そうした内実をふまえていく論議が期待されると思います。
 一国の最高指導者は、核時代にあっては、その国の運命を、いやおうなく人類の運命と連動させて考えていくべきです。優れた指導者であればあるほど、責任感のおもむくところ、発想を転換せざるをえないはずです。すなわち「国家の顔」から「人間の顔」あるいは「人類の顔」への発想の転換です。
 さらに外交関係にも「国家の顔」から「人間の顔」をどうきわだたせていくか。外交官を中心とした外交関係はもちろん大切です。と同時に、そうした″国家の代表″の立場とは別に、国益という枠を超える次元での交流が必要になってきています。
 その作業は、おっしゃるとおり「思想のうえでも最高の人物」による賢人会議のようなものも必要でしょう。また、国益の呪縛からの解放という点では、さまざまな民間外交が学術、芸術、スポーッ、またある意味では商取引や観光の往来であっても、「人間の顔」をきわだたせることによって、むしろ力をもつ場合があるでしょう。
 実際、現代のように国家の論理がわがもの顔に跳梁している時代にあっても、学者や芸術家、スポーツ選手等の間には、多少の政治的曲折があろうと、微動だにしない信頼と友情の花が開いている場合が、しばしば見られます。日本でも、最近は″民際外交″という言葉がよく使われています。
 カズンズ 大局観に立ち、再言すれば、サミット(頂上会談)といえども今世紀の最も切実な問題に対応しようとしないかぎり、世界の市民の希求を正しく反映しているとはいえないと思います。その問題とは、平和の創出も、自由の保障も、進展していく世界の諸目的への奉仕も、国家が絶対主権をもっているかぎり、達成できないということです。
 絶対主権を国家がもっているという問題こそ、秩序のない世界の紛争の火に油をそそぎ、この無秩序の淵底にひそむ危機の火種をあおるものです。米ソに関していえば、イデオロギーの対決に決着がつきさえすれば、おのずから平和がやってくるというのは、もとより誤りです。
 もちろん、世界政府のような、より高位の権威機関を創設し、発言権はこれに与えねばならないという点を、権力の最高位者同士が言いあうのは容易なことではありません。問題はそこにあります。既成の事実として絶対主権国家の首席代表たる彼らが、代案として主権の共同管理を提議するのも、容易ならざることです。
 しかし、いかに困難だろうと、世界の平和を実現するのが目的であれば、おこない難いこともおこなっていかなくてはなりません。
 個々の市民に火器の保持を認めるのは、よくないことだとしながら、六十万年にわたる人類の進化も一瞬のうちに無にしてしまう手段を、国家が保有するのは正当だとされているのは、いったいなぜか。国家の指導者は、この問題を真剣に考えてみるべきです。
 というのも、核兵器はもとより、大量殺傷手段を禁止しないかぎり、また、このことに関して諸国家が世界法を確立しないかぎり、国内法はむしろ新たな原始時代を招くものであるとしか考えられないからです。
3  比重高まる民間外交
 池田 国家でも、とくに絶対主権国家の交戦権というものが、はたして是認されてよいかどうか。これからの指導者は、この点の疑問を、つねにみずからに問いかける必要があると私も思います。
 私は本年初頭にも、平和へのいくつかの提言をいたしました。その一つに、日本国憲法が規定する「交戦権の否認」を世界各国の憲法が導入する道を探ることを提案しました。そして、それを民衆レベルの運動として進めるために、国連NGOが「世界不戦キャンペーン」を推進してほしい、と申し述べました。国家の指導者に発想を転換させるためには、民衆の力を結集して、そうした方向に生かしていく以外にないと私は考えております。
 カズンズ それは、タイムリーな提案ですね。今のところ、米ソ関係は順調に進んでいますが、不確定要素がないわけではありません。また、軍拡競争が再開される可能性が、一〇〇パーセントないわけではない。だから、世界の平和は米ソニ大国の関係だけに依存してはならない。世界全体の望ましい安全保障を創出することによって、米ソが協力しつつ、国連のなかで諸問題の解決をはかる体制が考えられなくてはなりません。
 池田 国連を重視するという教授の考え方に一〇〇パーセント賛成です。次に「国家」とは対極をなす「人間」を表にした外交の可能性について、もう少し話しあってみたいと思います。
 先ほども申しましたが、従来の国家外交は国益という枠内でしか、ものが見えない硬直性をもっていました。それに対し、民間外交は「国家の顔」でなく、「人間の顔」を表にたてることができるという利点をもちます。
 私自身、これまで四十数力国を訪問し、″人間外交″の可能性を、私なりに追求してきました。これまで民間人としての交流に大きな実績をあげてこられた教授は、現代における「民間外交」の役割を、どう位置づけられていますか。
 カズンズ 私自身が直接かかわったいくつかの具体例をとおし、話を進めたいと思います。
 その一つは、一九六〇年におこなわれた「ダートマス会議」です。これは、米国のニューハンプシャー州のダートマス大学で二週間にわたり、米ソの民間人が対話をかさねる会議でした。討議事項は、米ソ関係から世界平和に関することまで広範囲にわたりました。そして、この会議を通じて実りのある交流へ、回路が開かれたと思います。
 まず人間関係が確立されました。それも一対一の関係になりました。会議の場でもおのおのが一人対一人という人間的な立場を尊重しながら、その人の名前によって親密に対話を進めたのです。
 ですから、朝食の食卓でとなりあわせになりますと、食後もいっしょに大学の構内を散歩し、ユーモアまじりの話を、そして時にはユーモアぬきの話もかわしますし、おたがいに家族の写真の見せあいにもおよぶわけです。
 また、ともに秋の自然の饗宴にあずかり、紅葉した樹木や季節の花々を賛嘆しあう、ということにもなります。
 池田 非常にいい発想です。まだ、自由主義と共産主義という対決イデオロギーが色濃く世界をおおっていた六〇年(昭和三十五年)という時代に、アメリカ側がイニシアチブ(主導権)をとって、ソ連の民間人のそうそうたる面々を招くという試み自体、たいへん新鮮なものを感じます。
 たがいに人間同士であるというのは当然のことですが、人類は長い間、このことを行動のうえで自覚できないできたといえましょう。異国人たちも同じく家族のことを思い、平和や幸福を願っているという平凡な事実になかなか目が向きません。鉄のカーテンの向こう側に自分たちとは違ったタイプの人間がいると思い込み、いらざる不信と対立に流されてしまった時代がありました。それは、開かれた人間同士の接触がなかったことが大きな原因でしたね。
 カズンズ 私どもの希望が、国家対国家とは別枠の話しあいを進めうる準拠を確立できるのではないか、という点にあったのはもちろんです。それが確立されたら、ただたんなる「国益」をめざすのではなく、相互の「人間益」をめざして、あるいはたんに「民族益」をめざすのではなく、相互に「人類益」をめざして、諸問題の検討と考察ができるのではないか、というのが双方、共通のねらいでした。
 この当初の目的は十分に達成されたとはいえないかもしれませんが、しかし、たがいに話しあってみると、かくも人間同士として認識しあえるものか――と驚きあう場合がしばしばありました。
 その驚きがじつは、どちらの側にもショックになったとさえいうべき場面がありましたから、とにかくそれが、少なくとも成果だったといえるでしょう。
 池田 人間同士として理解しあうことの大切さ、まさに私の言いたい点を教授に代弁していただきました。私は、これまで民間人の立場から交流を進めるため、ソ連や中国などの社会主義諸国もいくどか訪問してきました。
 私の経験から言えることは、どこの国であれ、そこには人間がいる。その人間と、イデオロギーや体制を超えて、対等かつ平等に交流をはかるべきである、ということです。結局、「国家」の関係といっても、帰着するところは「人間」の関係になるわけです。私はこの原点に立って、各界各層の方々と交流を進めてきたつもりです。
 これは民間の交流でも、首脳会談の場合でもいえることですが、「人間を信ずる」こと、そして「動く」こと、この二点が、実りある「対話」を結実させる要諦ではないでしょうか。
 元駐ソ米大使でプリンストン大学名誉教授のジョージ・ケナン氏は、「勇敢に思い切った一歩を踏み出すこと」を訴え、「それは誇張された不安、勝手な想像力から生じた悪夢、破壊力の複雑な計算といった、近年われわれすべてがはまり込んでしまった罠を大胆に切り捨てて進むことなのだ」(『核の迷妄』佐々木担・佐々本文子訳、社会思想社)と述べております。
 結局、勇気ある″一歩″と人間同士の率直な魂の交流というものが、大きな障壁を越えるカギではないかというのが私の結論です。その点、ダートマス会議が、一人対一人という人間的な立場で対話を進めたということは、たいへん大事な点だと思います。
 カズンズ ダートマス会議につづいて、その翌年にアメリカ人がソ連に行って開いたのが、クリミア会議でした。この両会議を通じて、何はともあれ、米ソ間の人間的な関係を民間人同士の交流によって結び、そこからさらにはば広い交流を生みだす道筋をつけておこうという目的に前進が見られました。
 ただし、ソ連に飛び込んでいきさえすれば、親密な関係が、春季にチューリップの花をつむように労せずして得られると思ったら、むろん浅はかです。
 それ相応の開拓、十分な土壌づくりが必須の条件であることは、いかなる場合とも変わりません。まして、ソ連の民間にはおよそ、外国人とはあまり深くかかわらないほうがいいといった気兼ねが、今日でもありますから‥‥。
 池田 。ヘレストロイカの進行につれて、ソ連市民の変容ぶりもいちじるしいですね。″公″の場では型どおりの公式発言を繰り返し、あとは″私″生活の場に閉じこもるという、かつての閉鎖性は急速に崩れつつあり、とくにモスクワなどの大都市では人々が驚くほど率直、大胆に自分の意見を言うようになってきているようです。
 カズンズ たしかに民衆の対応ぶりは、すばやく円滑です。実際、朝晩顔をあわせていると、世界広しといえども、ソ連のように民衆の肌合いがあたたかく感じられる国は、そうざらにはないように思います。それはアメリカ人にとっても同じです。
 池田 私もソ連の人々と交流をかさねるなかで、あたたかく実直な民衆の心というものを強く感じました。私のみならず、訪ソした創価学会の関係者は異口同音に、そういった印象を語っています。
 これまで創価大学とモスクワ大学の学術、教育交流、シルクロードの学術調査をはじめ、創価学会の壮年、婦人、青年の各代表団、また私どもの富士鼓笛隊や創価大学の銀嶺合唱団等が、ソ連との交流を自主的に進めてきました。
 「核兵器――現代世界の脅威」展や、若い女性たちの手による「日本人形展」等も、モスクフで大きな反響を呼びました。
 主権国家の役割が相対的に地盤沈下するなかで、「人間の顔」を前面に押し出した民間人同士の交流の意味は、今後ますます大きくなってくるでしょう。

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