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日蓮大聖人・池田大作

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第二章 平和教育の眼目  

「世界市民の対話」ノーマン・カズンズ(池田大作全集第14巻)

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1  教育の基本に平和学を
 池田 時代は新しい人間観、世界観、平和観を待望しています。政治、経済次元の追求も大切ですが、ここではきたるべき「平和の世紀」へ、人間はいかなる準備をすべきか、とくに永続的な平和を考えていくうえで何が必要かについて、語りあいたいと思います。
 カズンズ 人間は知能の面で進化していますが、その知能のなかで、人間自身を守る能力だけは立ち遅れています。人類総体の知識量は膨大なのに、こと平和の問題になると、その解決のために役立つ仕組みはもちあわせていないのが、残念ながら、人類の実態のようです。
 池田 そうなんですね。私たちは、いつの時代にもまして、積極的に平和の道、文化の道を歩まねばなりません。
 現代には、核兵器にまつわる″メガ・デス″などという言葉にみられるように、人命を物とみなして、はばからない発想があります。その視野には、対象とされている民衆一人一人の意志や感情、表情は入ってきません。いうなれば生命感覚の荒廃というほかない時代に私たちは生きています。
 カズンズ まったく同感です。人間は完全な生命観を求めて、化学、物理学、工学、数学をはじめ衛生学なども研究科目にしていますが、いまだに平和学を教育の基本にはしておりません。いうなれば、この世界で最も大切な科目が教えられることは、ほとんどないというのが現状でしょう。
 池田 平和学こそ、基本にすべきです。私も二十年あまり前から、そのことを考えてきました。これまでスウェーデン人文社会科学研究院客員教授のヨハン・ガルトゥング氏、オスロ国際平和研究所元所長のマレク・テー氏、ハワイ大学教授のグレン・ペイジ氏など世界の代表的な平和学者ともお会いし、意見の交換をしてきたのも、そのためでした。
2  「世界市民」意識の育成
 カズンズ 思うに、安全な状況をつくりだすには、国家の主権を効果的に制限するに必要な諸原則が世界法という構想に盛り込まれ、これにもとづいて行動しないかぎり、ほかの知識がいかにあろうと人類の役に立たないでしょう。
 池田 日本について申し上げれば、平和ということを、教育の次元で正面きって取り上げたのは、まだこの四十年ほどです。
 それ以前の、近代日本の歴史は、″富国強兵″が最大の国家目標とされ、国家主権の行使としての戦争がほとんど自明の理のように是認されてきました。そこに疑いをはさむ人は、ごくわずかな思想家、宗教家にすぎませんでした。
 ですから、平和それ自体を、世界法というような概念で積極的に取り上げ、論ずることもほとんどありませんでした。
 カズンズ 状況はよくわかります。
 池田 日本人のそうした考え方を根本から揺るがす変化が起きたのは、ご存じのように、太平洋戦争後です。とりわけ二度にわたる被爆体験、そして平和憲法の誕生は、国家主権の絶対性を問い直させ、国際社会へ眼を開かせました。
 カズンズ 人間には皆、日本人であれ、アメリカ人であれ、あるいはロシア人、中国人、イギリス人、マレー人、インド人、アフリカ人であれ、おたがいへの義務があります。
 それは、各人が所属している主権国家への義務を超越したものです。
 今、二十世紀の人類が巻き込まれる対立は、イデオロギーや政治をめぐる対立だけではありません。人格、歴史、それ以外の点でも、対立することがあります。自分が所属する身近な共同体のなかでの利害関係から、人類全体のさまざまな共同体との利害関係にいたるまで、ことごとく対立しなければならない場合もあります。
 また、われわれが住んでいる世界はかならずしも、われわれがつくった世界ではないと主張したくなる場合もあるでしょう。しかし、この現に在る世界の様相をその複雑な要素ともども把握しなくては、この世界の安全をしかるべく確保することはできないのです。
 池田 まったく同感です。またその意味では「国家」「民族」の問題は、二十世紀の今日まで人類がかかえてきた最大の課題の一つかもしれません。これはまことに微妙な問題です。しかし、もっとたがいによく語りあい、知りあい、協調していくことは十分に可能なことです。現に時代の流れは、それを志向しています。
 カズンズ 今後の時代の展望にいかなる不確定要素があろうと、一つだけ確かなことがあります。
 それは、現在の世代はもとより、今後の世代も、さらにまた後続の各世代も、みな人類共同体の市民とならなければならないということです。つまり、どの国に行っても、どの国民にくわわっても、そこに、そのなかに、安楽の場がなければならないということです。
 それにはいくつかの言葉も話し、その地の人たちの哲理や心理も少なからず解し、今はまだ道標もない道をたどるすべも知っておく必要があります。
 池田 とくに若い世代はそうですね。それと国連のイニシアチブ(主導権)により、各国の人々が「環境」「開発」「平和」「人権」等の、国家の枠を超える人類的課題を集中的に学べるようにしたらどうか、そういう教科書づくりを検討してみてはどうか、ということを私は提唱してきました。「世界市民」意識を涵養し、具体的に行動化していくことが、二十一世紀までの残されたわずかな期間における最大の課題であると思ってきたからです。
 カズンズ 世界市民たるには、もちろん知識も必要ですが、同時に知識よりもはるかに大切なものが必要です。それは、さまざまな価値があることを痛感するとともに、価値の創造と維持のための諸条件を深く心得ておくことですね。
 池田 賛成です。
3  人間の尊厳を重視
 カズンズ 従来の教育ではいたらない点があるのは、なにもアメリカ合衆国にかぎりません。それは世界のほとんどの国においても同様で、いわば五十歩百歩の差のように思います。それは人々に部族意識を植えつけてきたけれども、人類意識を啓発することはあまりなかったという点です。つまり一視同仁いっしどうじんの心が人類すべてにおよぶのではなく、一部の人間にかぎられてしまうような教育、これが今日にいたるまでの教育の大きな流れであったと思います。
 さらに申し上げれば、従来は価値観にしても、人間のなす物質的な事柄を優先し、人間自身の尊厳を重視することがありませんでした。人間の力は宣揚されるけれど、生命の尊さは謳歌されません。国歌があって、全人類の歌がない。
 池田 ソ連の友人にも私は話したことですが、日本軍の歴史のなかに、心に残るエピノードがあります。
 日本が帝政ロシアと戦争をしていたころのこと、ある日本の上官が部下たちに、口シア人の捕虜を見物にいこうと誘った。すると、職人出身の一兵士が、敵ながらロシアの兵士も同じ人間である、それが運つたなく捕虜になって引きまわされているのは、気の毒ではないか、彼をはずかしめたくない、といって見物を拒否します。
 この一兵士の発言がきっかけになって、やがて捕虜見物は中止になった。(長谷川伸『日本捕虜志(上)』時事通信社、参照)
 いつの時代にも、民衆のなかには、こうした人間性の美質、善性が脈動しています。
 日本ではその後、日を追って空疎な国家主義のベールに人間の美質や善性も、おおい隠されていってしまいました。しかし、人間は、本来そのような、世界の人々と手を結び、心をかよわせていくことのできる広々とした可能性を秘めています。
 それをさまたげている遮蔽物を取り除いていくところに、平和教育の眼目があるのではないでしょうか。
 カズンズ この私自身も、自分の受けた教育を試してみる機会があるたびに、適切な教育の不足を自覚しないではおられませんでした。
 試し方はかんたんです。――はたして、人口五十億の世界に住んで、その世界の全体を理解する用意が自分にあるか否か、こうわが心に問いかけてみればいいわけです。
 この世界は、私の受けた教育でもまだまにあった一八五〇年や、一九〇〇年の世界ではなく、一九九〇年の世界です。
 といっても、私の受けた教育が完全に失敗だったということではありません。世界についてのいわば鳥瞰図を授けてくれるという点では、すばらしい面がありました。ある場所、ある民族を他の民族、他の場所とくらべて、すみやかに容易に識別する方法、これは教えてくれました。
 地理学の授業では、顔面の骨格、肌の色など、身体面の一般的な相違点について教わりました。要するに、私の受けた教育は何を見てもめんくらわないように訓練してくれたわけです。
 池田 よくわかります。教授の言われる「世界の全体を理解しようとする」開かれた心をどう育んでいくか。近年、日本でも「国際化」「国際人」という言葉がよく使われていますが、実際は、まだまだこれからの課題です。
 カズンズ 各地で、私はさまざまなことを見聞しました。世界を旅行しますと、たとえば、泥でこしらえた小屋に住んでいる人たちがいます。竹づくりの小屋に住んでいる人たちもいます。
 あるいは燃料に泥炭をもちいるところがあるかと思えば、家畜の糞をもちいるところもあります。音楽も、五音階のものを好む民族がいるかと思えば、十二音階のを好む民族がいるわけです。あるいは菜食主義者にしても、宗教的な理由でそうなった人、自分の選択でそうなった人など、いろいろいます。しかし私はなにを見聞しても、驚きませんでした。
 こういう事柄に関しては、私は十二分なくらい教育を受けていました。ただ、その教育のいたらなかった点は、そうしたさまざまな違いについて意義を教える場合、意義の違いなどおよそないのだということを強調すべきだったのに、それはしなかったという点です。人間同士の相違点は、相似点からすると、ほとんど取るにたりません。なのに相似点のほうは素通りしてしまう教育でした。
 相違点の彼方には、あまりに素朴であるゆえに、およそ認識されていない真実があるということを把握し、明確に示してくれる教育ではなかったのです。素朴な真実のなかでも、いちばん素朴な真実は、人類が一つの運命共同体をなしているということです。

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