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日蓮大聖人・池田大作

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第一章 ヒロシマの世界化  

「世界市民の対話」ノーマン・カズンズ(池田大作全集第14巻)

前後
1  初の出会いから
 池田 教授とこのように親しくお会いできて、私は人生の一ページをかざることができた思いです。心から感謝しております。
 カズンズ 私も胸がいっぱいです。お会いできて、本当に光栄に思っております。
 池田 教授のご著作は、たいへん印象深く読ませていただきました。また″アメリカの良心″としてのご活躍、そして卓越したご人格も、よくうかがっております。
 カズンズ 私もトインビー博士との対談集、またペッチェイ博士との対談集を読ませていただきました。私どもの時代の非常に重要なテーマが広範囲に取り上げられていて、たいへん啓発的な本ですね。私としては、これ以上つけくわえることはないという思いです。本当にお会いできてうれしく思います。
 池田 深いご理解、そしてあたたかい励ましの言葉、かさねて感謝します。教授の体験、思想、哲学、理念というものが日本においても徐々に深く伝わりつつあると、私自身、強く感じております。また、それが時代の要請でもあります。
 とくに教授のご著作を拝見し、生死の問題を乗り越えながらの深い思索、体験上の示唆には、人間の可能性の精髄を照らす光を感じとることができました。
 カズンズ それは、おそれいります。
 池田 現在は「精神の空白」の時代といわれます。それだけに、青年たちは新たな哲学、新たな人生の指針を求めてもいます。教授は今、教育の現場で学生たちの指導にあたっておられます。この対談も、そうした若い人々に示唆を与えるようなものにしたいと願っています。
 カズンズ そのことで、思い出すことがあります。数日前のことです。大学の病院に狂った男が侵入し、銃を乱射しました。それで、若い女性が死亡、一人の青年が重傷を負いました。その友人たちは、この悲劇に接して、暗澹たる思いにかられたにちがいありません。この世に神はあるのか、人生の意味は何なのか、なぜこんなことが起きねばならないのか――と。
 池田 よくわかります。
 カズンズ 人生には、さまざまな孤独のかたちがあります。しかし、このような悲劇をまえにして、深刻な疑問が生じてきても、答えがまったく見あたらないのでは、それ以上に深い孤独はありますまい。
 池田 それは真実です。しかし、そこで虚無的になってしまうのか、それとも、悲しみを乗り越えて立ち上がるか。そこに人生の分かれ道があります。
 カズンズ そのとおりです。人間の最大の悲劇とは何か。それは、死そのものではない。肉体は生きていても、自分の内面で大切な何かが死んでいく――この″生きながらの死″こそ悲劇です。このことを、私たちはもう一度、確認しあう必要があります。
 人間として生まれてきたからには、だれにも共通した、尊い使命があります。それは、人間を信じ、信頼しあうことではないでしょうか。たとえ、どうしようもない悲劇に直面し、悩み苦しんで人生の意味を見失ったとしても、人間を信じるという、人間本来のあり方は、絶対に忘れてほしくない。
 ″いのち″という、かけがえのない実在――それをどこまでも肯定し、大切にしていく。他の人の人生を、感情を、絶対に否定しない。無上のものとして認めあっていく――人間として最も尊い、この信頼の心だけは放棄してはならぬ。青年たちに私が望むのは、その一点です。
 池田 私も同じ思いです。そうした教授のお考えには、生命の尊厳を説いた仏法の教えと通底するものがあります。現代人にとって、最も大切な視点が、ここに示されていると思えてなりません。
 かつてトインビー博士と対談したときですが、私は博士から多くの教えを受けました。対談を終えるさい「私はトインビー教室の一学生として、卒業できますか」(笑い)とうかがった。すると博士は「最優秀の学生です」と、笑顔で答えられたのが忘れられません。
 このたびは、カズンズ教授から多くのことを学ばせていただきます。その意味で、私は教授の学生の一人と思っています。
 またこの前(一九八九年十月)は、創価学会インタナショナル(SGI)がニューヨークの国連本部で開催した第一回の「戦争と平和」展にご支援をいただき、御礼申し上げます。
 この展示会のために「ニューヨーク・タイムズ」(一九八九年十月二十二日付日曜版)にのせた意見広告に、すばらしいメッセージを寄せていただき、ありがとうございました。力強いアピールに、たいへん励まされました。
 カズンズ それは恐縮です。何らかの応援をさせていただければ、と考えていたものですから。
 池田 ところで一九九〇年は、世界にとって大きな分岐点の年ではないかという気がしてなりません。八〇年代は、劇的なベルリンの壁の開放、東欧諸国の急激な民主化、また米ソ両大国の東西ベルリンの壁 東西ベルリンを隣てる総延長百六十五キロ
 におよぶ″コンクリートの壁″。東西間の冷戦により一九
 六一年八月に構築されたが、冷戦の終結や東欧の民主化の
 流れのなかで八九年十一月九日、二十八年ぶりに開放。
 東西冷戦終結宣言一九八九年十二月、アメリカのブッ
 シュ大統領、ソ連のゴルバチョフ書記長が地中海のマルタ
 沖で会見し、冷戦の終結を発表した。本巻一三九で「冷戦
 に終止符」の項を参照。
 世界市民の対話″θ冷戦終結宣言で幕を閉じました。人類は今こそ、二十一世紀という新しい「平和の世紀」へ向かう本格的な準備をすべき段階に入っています。
 その意味で、平和のために行動し、発言されてきた教授と、これから対話を進めていくことに大きな意義を感じております。
 カズンズ 私もまったく同じ気持ちでおります。
2  ″被爆乙女″への思い
 池田 カズンズ教授といえば、まず広島との深い関係が思い起こされます。それは『ある編集者のオデッセイ──サタデー・レヴューとわたし』(松田銑訳、早川書房)にくわしく記されています。
 しかし、この対談の読者には、おそらく戦後生まれの人も多く、教授と広島との関係について、あまり知識がないかもしれません。そこで、はじめに教授と広島のかかわりについて、語っていただければと思います。
 カズンズ 四九年(昭和二十四年)のことですが、当時、私が編集長をしておりました「サタデー・レヴュー」誌は広島の″原爆孤児″を「里子」にする制度を生みだし、四百人の孤児のお世話をしました。
 池田 覚えております。当時、ずいぶん話題になりました。
 カズンズ 「サタデー・レヴュー」の記事を読んで賛同したアメリカの「里親」の人たちは、里子になった孤児や、孤児院の院長と手紙のやりとりをしたり、孤児院への寄付や、特別の教育、訓練がほどこせるように援助をしたわけです。
 池田 四九年といえば、ようやく広島が原爆の惨禍から立ち上がろうとしていたころです。そのとき、教育援助という点に着目され、真心にあふれた支援をしてくださった。今、振り返ってみても、そのあたたかい心と国境を越えた行動に、日本人の一人として、あらためて感謝申し上げたい気持ちでおります。また「サタデー・レヴュー」は広島と長崎で、医学治療関係のプロジェクトを進めたとも聞いております。
 カズンズ その主要なものは被爆した若い女性に治療をほどこすもので、この事業は一九五三年(昭和二十八年)に始まり、四年間かかりました。
 池田 その治療のために、彼女たちをアメリカに招かれましたね。
 カズンズ きつかけは五三年八月に、妻といっしょに広島を訪れ、被爆した彼女たちに直接会ったことです。そうして彼女たちがアメリカで、最新の形成外科手術を受ける必要があることを知りました。当時、その手術は日本では不可能でした。
 これが、広島の″被爆乙女″をささえるプロジェクトの始まりでしたが、彼女たちの手術が実現するまでには、それから二年の歳月を要しました。
 池田 戦後、多くの日本人が励まされ、また勇気づけられたニュースでした。一人のアメリカ人の良心の発露があったればこそと思います。
 しかし、民間人の自発的な運動として進められたのですから、実現までにはずいぶんご苦労されたでしょう。
 カズンズ
 今でも日に浮かびますが、五五年五月九日、飛行機がニューヨークに到着しました。季節はずれの厳しい寒さで、タラップから降りてきた二十五人の女性たちが、不安な顔をして黙ってかたまっていたのを思い出します。
 池田 みんなの気持ちは痛いほどわかる気がします。娘さんたちを送り出されたご両親も心配されたと思います。
 カズンズ でも、そうした不安を乗り越えて、彼女たちは立派に親善交流の役割も果たしたのではないかと、私は思っております。
 私たちが交流プログラムに参加するようアメリカの病院に呼びかけたわけですが、どの町でも、彼女たちは町の人々に愛されました。彼女たちも、アメリカの家庭に逗留し、英語を熱心に学び、すすんで人々と交流の輪を広げました。そうして闘病生活のなかで、看護助手の特別コースを終了するなど、さまざまな″勝利″の実証を示したのです。
 池田 戦後の日米民間交流史の一章をかざる出来事でしたね。今、教授は″勝利″という表現を使われましたが、その体験は米国市民の方々の善意とともに彼女たちの心に深く刻まれ、生涯の宝にもなったのではないでしょうか。
 カズンズ 私は、そのなかの一人が述べた言葉を忘れることができません。
 「私の心の中に大きな変化が起きました。これには身体の変化以上の大きな意味がありました。私の人生がまったく違うものへと変わったからです」
 彼女は顔の治療をしてもらい、被爆の跡も目立たなくなりました。しかし、それよりも、もっと大きな変化が彼女の内で起こっていたことがわかります。
 一方、彼女たちをアメリカに呼んだ私たち自身も、ずいぶん学んだことが多かったように思います。その最大のものは、人間は、他者を思いやる心があれば、おたがいに連帯しあう橋をいつでも架けることができるということです。
 池田 感動的なエピソードです。貴重な歴史の証言だと思います。
3  ヒロシマ・その運命的瞬間
 池田 いうまでもなく人類史上、初めての被爆地となった広島は、核時代のつねに立ち返るべき原点となってきました。
 その広島が受けた衝撃については、スウェーデンの故パルメ首相が「国際的に責任を負う国家の政治家は、政権を担当したら、すべからくヒロシマを訪れるべきである」と語っているほどです。そのあとを継いだカールソン首相も一九八九年六月に、ストックホルムで私がお会いした折、「ヒロシマ」ヘの訪問を強く希望されていました。
 ヒロシマの歴史から人々は学びつづけてきました。とともに、今、世界は新しい時代に向かって″大いなる過渡期″を迎えております。私どもは新しい時代にふさわしい、新しい発想に立った平和構築に積極的に取り組むべき時を迎えたと思っております。教授とのこの対談では、こうした時代における哲学と運動についても語りあっていければ、と念願しております。
 その意味から「ヒロシマの世界化」を考えるために、さらに教授ご自身の体験をお聞きしたいと思います。
 カズンズ 私が初めて広島を訪れたのは、四九年のことです。
 当時はまだ、広島のこうむった傷が口をあけたままの状態でした。宿舎のバルコニーに立ちますと、爆心地一帯を見渡すことができました。なかでも爆心地の目印として最も有名になった旧広島県産業奨励館のあのドーム──というよりはかつてドームであった――その中身は、がらんどうの空洞でしたが、いびつに曲がった鋼鉄の骨組みが、かろうじて残っていましたので、もとはドームだったということがわかるわけです。
 市街を歩きますと、累々たる焼け跡が目につきました。被爆後四年の間に生えた雑草類が廃墟のあとをかなりおおい隠してはいましたが、ビルの中身は焼きつくされ、空洞になっていました。爆心地に立ったときの私の気持ちはとても筆舌につくせません。
 ここに、閃光が‥‥わずか数年前に。ほんの一瞬の核分裂のために‥‥太陽の表面温度の何倍もの爆閃が!
 そして突如、ストップ・ウオッチでも計れない一瞬に、市の心臓部が灼熱のナイフで切り裂かれたのです。
 そのとき市内にいたという人たちに取材しました。何十人もの人たちでしたが、火傷を負い、そのうえ原爆病にかかっていて、私への証言はほとんど異口同音。
 その瞬間の閃光は、午前の太陽よりも明るく、稲妻よりもはるかに鮮烈で、おそらくこの地上で人類の目にふれたであろう、いかなる光よりも強烈だったというのです。
 池田 まさにそうした運命的な瞬間以来、人類はいかなる時代にもなかった歴史の段階に入りました。かつてアーサー・ケストラーは、彼の遺言ともいうべき『ホロン革命』を、次のような一節で書きおこしています。
 「有史、先史を通じ、人類にとって最も重大な日はいつかと問われれば、わたしは躊躇なく一九四五年八月六日と答える」(田中三彦・吉岡佳子訳、工作舎)
 彼は「個としての死」から「種としての絶滅」という、核時代の脅威を的確に表現しています。さまざまな事情はともかく、ようやく今、大国の指導者も核兵器削減を考え始めております。
 それにつけても、教授は被爆後の広島の地にみずから足を踏みいれ、多くの事実を見聞され、それがヒロシマを考える場合の原点になっている。「体験」に即した言葉、「実感」にもとづいた行動は説得力をもちます。この点が大事だと思います。
 カズンズ そのとき私は、病院跡に焼け残っている石の門柱の前にたたずみ、手を伸ばして、その石面の粗く盛り上がったところをさわってみました。すると、石の表面が原爆の熱射で溶けてしまったため、石の内部構造すら変化しているのがわかりました。
 それから街を歩きながら、考えました。人々が都市に戻ってくるのは、いったいなぜだろう? いいえ、ヒロシマだけではありません。人間が建設したいかなる都市でも、事は同じでしょう。こうした爆弾を人間がつくったからには、いずこの都市にも、その呪いをかけたのと同然だからです。なのに、わざわざ苦悩のひしめく都会に帰ってくるのは、どんな魅力のせいだろうと、私は不思議な気持ちになりました。
 しかし、その答えを探すのに、さほど遠くまで足を運ぶ必要はありませんでした。答えは私のまわりにあつたからです。
 まず通りを行きかう人たちの表情に、それを見つけました。若い人たちの元気いっぱいな、いかにも生きているのが愉快そうな歩き方が、答えになっていました。子どもたちの屈託のない笑い声を聞くにつれ、ああ、ここにも答えがあると思いました。実際、遊び場さえあれば、どこでも少年たちがボール遊びをしていましたし、彼らが夢中になっている姿にも、答えはありました。こうして私が見つけた答えは、どんな哲学者があえて夢見たよりも深遠な勇気と蘇生の源泉を人間はそなえている、ということでした。
 まさに地上の最大の力、戦争のためのいかなる装置や爆発物よりも偉大な力、それは、生きぬく意志であり、希望を受け入れる人間の能力であると、私は考えました。
 池田 すばらしい言葉です。また、鋭い洞察です。
 広島への原爆投下は、歴史上かつてなかった都市と人間への破壊行為でした。しかし、人間は決して敗者としてひきさがらなかった。今日、広島はそれに対する人間自身の、まぎれもない勝利の証としてわれわれを力づけてくれます。
 どんな悪魔の力を秘めた破壊兵器といえども、人間の希望や意志をすべて抹殺することはできないという事実が、明白にされたからです。
 ただ、そのヒロシマ当時と現在とでは、状況がまったく異なることを忘れてはなりません。現に存在する核兵器を使用すれば、その人間の希望や意志さえもすべて抹殺してしまうからです。
 カズンズ そのとおりです。
 広島のことで、もう少しつけくわえさせていただきますと、なおもまわりを見まわした私の目に、赤子を背中に結わえた若い女性が映りました。いわゆる洋装に下駄というかっこうではありましたが、生活に負けている感じはまるでしませんでした。
 私の言葉で申しますと、彼女は「敗北主義者」ではありませんでした。話しかけてみると、これから家庭をもつために出てきたのです、ということでした。それを彼女はよそではなく、こともあろうに、この広島でやりとげようとしていたわけです。
 この女性には人生に希望があり、何事をもってしても、それは動じない、といった感じでした。そうして別れぎわに気がついたのですが、彼女のうなじと左腕の肉は、火傷で変色していました。
 池田 広島の人々は、語りつくせぬ悲しみ、苦しみを乗り越えてきた。いや、乗り越えて生きぬいていくほかに道はなかったのです。被爆したある婦人の、「原爆は悲しい、悲しいねェ」という言葉は、私の胸に深く刻みこまれております。
 広島の再建の陰で、人知れず後遺症に苦しむ方、また、嫁ぐこともままならない女性たちが数多くいたという事実。被爆者、被爆二世、三世が現在もなお、苦しみつづけているという現実。私の友人にも、そうした方々がおります。こうした痛苦と慟哭の歴史のうえに、今日の広島が存在するのだということを、私どもは永遠に忘れてはならない。
 カズンズ その試練を乗り越えて、広島は世界のヒロシマになりました。原子力時代に入って早々にです――。
 原子の力の登場は、太陽系の宇宙にあっても未曾有の「何事か」でした。その「何事か」は物質の核に達し、それを引き裂き、自然界の基礎単位の物質をたがいに破砕させ、それらによって、太陽の一部がこわれ落ちたかと見まがうほどの閃光を放出させました。その不思議な光線は、生物の骨をつらぬき、人間の血液成分にかつてなかった、また夢想だにもしなかった変化を生じせしめました。逆説的な言い方ですが、これは、自然対科学の闘争のなかで、科学的精神が最も恐ろしい意味で凱歌をあげた極限の姿だと思います。

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