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後記 「池田大作全集」刊行委員会

「21世紀への警鐘」アウレリオ・ペッチェイ(池田大作全集第4巻)

前後
1  本書は『二十一世紀への警鐘』と『人間革命と人間の条件』の二つの対談を収録しており、全集としてはアーノルド・トインビー博士との対談『二十一世紀への対話』に継ぐ「対談編」である。
 『二十一世紀への警鐘』(これは日本語版のタイトルで、昭和五十九年十月に読売新聞社から刊行された)は「ローマ・クラブ」の創始者として著名な、イタリアのアウレリオ・ペッチェイ氏との対談で、各国では“Before It Is Too Late”
 (手遅れにならないうちに=これは日本語版ではサブ・タイトルとして使われている)というタイトルで出版されている。
 池田会長(当時)が初めてペッチェイ氏と会ったのは、一九七五年五月、四十七歳のときである。この月の十三日に日本を発った会長は、十六日にパリで氏と会見している。それはその二日後にロンドンへ飛び、翌日、できたばかりのトインビー博士との対談『二十一世紀への対話』(日本語版)を、ヨークシャーで療養中のトインビー博士に代わって、秘書のルイス・オール女史に手渡し、その足で再びパリに戻り、その日の午後には本書のもう一人の対話者であるアンドレ・マルロー氏との二回目の対談に臨み、さらにその翌日にはルネ・ユイグ氏と、翌々日にはジル・マルチネ氏と会談し、三日後にはモスクワに向かうというまさに激務の最中のことであった。
2  ところでペッチェイ氏とのこの会談は、じつはトインビー博士の示唆によって実現したものであった。それは二年前の一九七三年五月、トインビー博士との会談の最終日に、同博士から紹介された友人の中に、アウレリオ・ペッチェイ氏がふくまれており、その中のルネ・デュボス博士に続く二番目の会談として実現したものだったのである。ちなみにルネ・デュボス博士とは、トインビー博士との会談が終了して半年後の、一九七三年十一月二十八日に東京で会見している。
 池田会長とペッチェイ氏は、その後も東京で、あるいはイタリアのフィレンツェで、またパリでと五回の会談を重ねて、その成果が本対談としてまとめられた。
 アウレリオ・ペッチェイ氏は一九〇八年七月生まれなので、最初の会談時は六十六歳、池田会長より十九歳余の年長であった。氏は第二次大戦中はレジスタンスの闘士として活躍し、戦後はフィアット社、オリベッティ社の経営に参画し、その後、一九七〇年にローマ・クラブを設立して人類の将来に向けて建設的提言を積極的に続けてきたが、本対談の五回目の語らいが終わって九カ月後の一九八四年三月、最初のドイツ語版が出版された月にローマで死去している。それは第一回の会談から九年後の、氏にとって七十六歳も間近な春であった。
3  氏はかねてから「人間性革命」(humanistic revolution)ということを主張してきた。しかしこの対談以降、「人間革命」(human revolution)という表現に変えている。氏はそれを「現代の物質優先の技術時代にあって、各世代を啓蒙し鼓吹できる新しい人間主義(ヒューマニズム)に動機を得た、深部にまで達する文化的進展」(本書三八八㌻)と定義づけており、実践的意味合いは異なるにしても、内容的には創価学会が主張する人間革命と一致するものである。そのことは、池田会長が本書の随所で指摘しているとおりである。
 地球の現状を憂い人類の未来を真剣に思索した結果、人間そのものの本源からの変革こそ肝要との結論に達したことは、氏の大いなる卓見というべきである。
 内容は「人間と自然」「人間と人間」「人間革命」の三部に分かれており、各部の初めにはその部の要を得た基調論文が、両著者により執筆されている。
 池田会長は後に「氏と私の思想・実践は、“人間”の一点において固く握手する。パリ五月の青空に恵まれた私たちの出会いは“人間性革命”と“人間革命”の出会いであったと思い出されるのである」と、氏との思い出を綴っている。
 なお、この対談は現在(一九九二年十月)、日本語、英語をはじめフランス語、スペイン語、ドイツ語、イタリア語、ポルトガル語、中国語、デンマーク語、マレー語、インドネシア語、タイ語、スウェーデン語、韓国語の十四の言語に翻訳され、広く世界で読まれている。

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