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日蓮大聖人・池田大作

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七、教育機関のあり方  

「21世紀への警鐘」アウレリオ・ペッチェイ(池田大作全集第4巻)

前後
1  池田 教育は、お金のかかる事業であるため、民衆に遍く教育を受けさせようとすると、国家が推進せざるをえないということになります。ところが、国家の権力を握っている人びとは、しばしば民衆が自ら考える力をもつようになることを嫌い、権力に盲目的に従いながら、そのもとでそれぞれの仕事に対して有能であることを望みます。
 その結果、知識や技術の習得に偏った教育となります。つまり、全体的な人間をつくることよりも、国家や産業などの機構の部品としての人間をつくろうとする、歪んだ教育になってしまいがちです。国によって程度の違いはありますが、現代の教育の特質は、まさにここにあると私は思います。こうした意味からも、私は、創価学会を母体として、大学、高校、中学、さらに小学校、幼稚園を設立したわけです。あなたは、これからの教育機関のあり方について、どのようにお考えになっていますか。
2  ペッチェイ 私自身も、またローマ・クラブ全体も、世界と世界四十五億の人類を、全地球的観点から考えています。
 人類の多様性を考えれば、ひとつの教育哲学を全世界的に適用することは不可能であることを、私たちはよく知っております。ある教育哲学が日本にとって良いからといって、イタリアやナイジェリアにとっても同様に良いとはかぎりません。しかも、多くの国々では学校を設立するための私的基金が十分にないため、今日においても将来においても、国家が教育にかかわることは不可欠なこととなるでしょう。しかし、ここで一言付け加えたいことは、国立の学校制度であっても、それ自体、非常に民主的に運営されている民主主義国家がたくさんあるということです。たとえば、わが国(イタリア)の場合でも、宗教機関が経営する学校での宗教偏向主義や(特定の信仰告白を重視する)信条主義に対して、しばしば批判が起こっています。
 しかし、教育制度のいかんを問わず、現今、人文科学は、現代社会を支える主柱とみなされている技術や科学の研究、経済の全分野にわたる訓練などのために、犠牲にされています。一般に、現代の学校では、ものごとをいかになすかを教えるだけなのです。私としては、教育課程のうち、物質的なもの、可測のもの、生産と消費にかかわるものの世界を扱う学科を優先させ、優遇することには断固反対です。それは、暗に思想の世界に対する差別を意味しているからです。
 私の考えでは、われわれにとって最も必要なことは、いかにして全体の観点から物事を思考し、質について推論し、計量できないものを比較し、形而上的なものを熟考するか、またいかにしてわれわれの知識、技術、情報等の総体や現在の行動を批判的に評価し、判断するかを学ぶことであり、これらすべてによって、賢明な人生哲学を抽き出すことであるわけです。
3  池田 科学・技術や経済といった物質世界にかかわる学科が優先されるのは、国家社会の物質的豊かさを手っとり早く増進するのに都合がよいからです。その反面で、人文科学が軽視されがちなのは、物質的実利と無縁であるためであり、さらにいえば、これらの学問はとかく現実の社会体制や権力者のあり方について批判的な眼をもつため、不快がられるという面があると思います。
 しかし、現代は、これまでの価値観が根本的に問い直されなければならないときであり、複雑化した社会の中で一人ひとりが自分の生きる道をとらえ直すことが、否でも必要になっている時代です。国家社会にとっても人類全体にとっても、長期的視野からの繁栄を考えるならば、物事を全体的視点から思考し、計量できない形而上的なものを考察して、正しい方向性を見定めていける人文学的教養を、できるだけ多くの人が身につけていくことこそ、現代にまさに求められているといえましょう。
 これまでは、物質の学問に力を入れた社会が勝利を収めてきましたが、その“勝利”がじつは破綻を招いているのです。これからの時代を切り開くのは、人文学的教養と全体的視野をもって科学・技術を正しく使いこなしていける人間を育成することに成功した社会である、といっても過言ではないと私は考えます。

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