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日蓮大聖人・池田大作

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二、生命の永遠性と業について  

「21世紀への警鐘」アウレリオ・ペッチェイ(池田大作全集第4巻)

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1  二、生命の永遠性と業について
 池田 博士が言われた、超越的な存在を前にしたときの自身の矮小感やはかなさへの自覚ということは、多くの高等宗教の出発点になっている点であると思います。
 仏教においても、その出発点は、自身を含めた現実存在への無常観であるとされています。釈尊が太子として何一つ不自由のない身であったにもかかわらず、すべてを捨てて修行の道に入ったのは、生・老・病・死の四苦に象徴される人間存在の無常への自覚が、その動機であったと伝えられています。
 修行と思索の末に釈尊が悟ったのは、生々流転しゆくすべての事象の奥底に存在する永遠不変の法であり、それは宇宙全体に遍満しているとともに、自己自身の中にもあるということであったといえましょう。
 釈尊は、人びとに教えるにあたっては、自らが無常への自覚から出発したように、まず、すべては無常であり、固定的な自我というものは存在しないということから説き始めました。しかし、それは虚無主義に導くためではなく、無常の世界の奥にある永遠常住の真理に目を向けさせるためであったことを知らなければなりません。永遠の真理の存在と、その永遠なるものが、どこかよそにあるのではなく、無常の万物の内にこそあることを説き明かしたのが、法華経なのです。
 その法華経の中で釈尊自身、考えられないほど遠い昔から常にこの世界にあって、生死を繰り返しながら、人びとに法を説き、救ってきたことを明らかにしています。仏教では、生命は永遠につづいていくものであり、生と死は生命の存在の仕方の違いであると教えます。すなわち、生命は生と死を繰り返しながら永遠につづいていくというのです。
 命が輪廻転生していくという生命観は、かつては、多くの民族において広く信じられていましたが、現代人の多くは、生命は生きている間だけの存在であって、死によって消滅してしまうと考えているようです。あるいはもっと厳密に言えば、そう考えたがっているといってよいでしょう。
 生命の永遠性について、またそれに対する現代人の考え方について、あなたはどのようにお考えになりますか。
2  ペッチェイ われわれをじれったい気持ちにさせて苦しめる種々の疑問に対しては、あの仏陀のような悟りを開いた人間でさえ、そのすべてを答え尽くすことができませんでした。たぶんこれらの疑問の多くは、われわれ人間にはまったく答えが出せないか、あるいは人間がまずい組み立て方をしているかの、どちらかなのでしょう。
 仏陀は、大宇宙における生命という魅力的なビジョンを考え、それを信ずることはできても、人間の現在の知的能力をもってしては立証できない一つの真理として伝えました。一方、科学者たちも、宇宙の生死に関して、一般に、百億年以上もの昔に、巨大な高密度の物質が爆発したときに生じ、いまもなお進行中とみられる宇宙の膨張過程をひきおこしたと想定されるいわゆるビッグ・バン(宇宙大爆発生成)説を、仮想しています。これもまた、証明できないものです。
 したがって、生命の普遍的な本質といった問題については、私としては、自分が実際に理解できると感じられる以上のことを断言するよりは、むしろ自分の無知をはっきりと認めるほうを選びます。
 私は、あれこれの宗旨が与えている定義によれば、信仰者ではありません。つまり、自分の肉体の死後に生命が別な形をとるという仏教の信念に与することもしなければ、また、現世での行為によって死後に刑罰や報酬を受けるという、不滅の霊魂を信じるキリスト教の信念に味方することもないわけです。
 とはいうものの、人間は──信仰者であれ無信仰者であれ──この世で善いことをすべきであるという仏教やキリスト教の信念を、しかも再生とか、報酬への望みとか、刑罰への恐れとかを気にせずに、私も自分なりのささやかな方法で、応用するつもりです。
3  池田 あらゆる宗教は、善を行えば報酬があり、悪を行うと刑罰があると説いて、人びとに善を勧め悪をやめさせようとしてきました。仏教にも同様の教えがありますが、しかしこれは人びとを導くうえでの手段的な教えです。
 むしろ、人間が本来の良心にめざめれば必然的に善を行い悪を退けるようになるのであり、そのような本源的な良心といったもののめざめをもたらすことがより重要であり、そこにこそ仏教の視点があったといえるでしょう。

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