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日蓮大聖人・池田大作

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宗教と生命観  

「21世紀への警鐘」アウレリオ・ペッチェイ(池田大作全集第4巻)

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1  宗教と生命観
 私は、ここで、どの宗教の教えがすぐれ、どの宗教が劣るということについて論ずるつもりはありません。ただ、私自身、仏教者として、仏教の考え方については、ある程度知っておりますので、この仏教がどのような考え方の内容をもち、それがどのように“万人に対する慈悲”につながっていくのかを述べてみたいと思います。
 仏教では、生命の現象には因果の法が厳格に働いており、いかなる人もこの法則の支配から逃れることはできないとします。生命の現象とは、人生においてどのような事件に遭遇し、そこに苦とか楽とかを味わうか、また、どのような特質をもつか、また、どのような環境や立場におかれるか、といったことのすべてを含みます。
 たとえば、現在、弁護士として生活し、それにふさわしい能力・特質をもっている人は、法律を勉強し、司法試験に合格して現在があるはずです。法律の勉強をしたことは因であり、現在弁護士であり、それにふさわしい力をもっていることは果です。これは、因果の連関が現在の人生の中で認識されうる例ですが、人はだれでも、現在の人生の中だけでは因果関係を解明できない、さまざまな特質をもっています。たとえば、生まれつきの容貌、性格、体質、家庭環境等々です。これらは、果はあっても、因はその人自身の内には認められません。仏教は、現在の人生の前に、過去世というものがあって、そこにそうした果を生じた因があったとするのです。
 すなわち、このようにして、人間は、永遠の過去から、無数の生と死を繰り返してきているとするのです。その生まれる世界は、必ずしもこの地球上とはかぎらず、大宇宙の中には無数の世界があって、自身の作った原因によって、その果を受けるのにふさわしい条件をもった世界に生まれるとします。
 したがって、ある人生において親子の関係であっても、つぎの人生においては兄弟や友達になることもありますし、ときにはまったくの他人になることもあります。そのようにして無数の人生を繰り返していくのですから、この世界に生きているあらゆる人間は、過去のいつかの人生において、親であったかもしれないし、兄や弟であったかもしれないし、子であったかもしれないのです。
2  さきに私は、“愛”ないし“慈悲”が生命に本然的に備わった働きとして顕れるのは、種属保存の本能と結びついていることを指摘しました。そして、個体保存の利己的本能に対抗して“愛”や“慈悲”が強い力を発揮できるのは、そうした本能的な根から離れないものでなければならないことを述べました。仏教の生命観は、永遠の生死の流転の中に全人類の連関を教えたものであり、その教えである“慈悲”の倫理の基底に種属保存の本能の根を深く下ろしたものなのです。
 釈迦牟尼は「この世界は私の所有であり、その中の衆生は悉く私の子である」と叫びました。私どもが真実の救済の仏として尊崇している日蓮大聖人も「この世界のすべての人は私の子であり、あらゆる人びとが受ける苦は私の苦である」と述べています。人びとをわが子と実感するゆえにこそ、人びとのあらゆる苦しみは、自分の苦しみと感じないではいられないのでしょう。しかしながら、実際に血のつながった親子であり兄弟姉妹であっても、憎しみ合い、悲惨な争いを演ずる例もあります。近親であるために憎しみも激しくなるという場合もありましょう。それを考えますと、ただわが子と感ずれば、そこに必然的に“愛”や“慈悲”が顕れてくるわけでないことは明らかです。根本的には、個別的にいえば相手の人の、総体的にいえば他の人びとの幸せを願っていく心が大事であり、それが、人びとをわが子と感ずる生命観と結びついて、より強く深い“愛”や“慈悲”へと結晶していくものと思われます。
 また、いま述べたように、近親であるがゆえに激しい憎悪をいだくという場合もあるにせよ、そのような例は他人に対して憎悪をいだく場合に較べれば、きわめて稀なケースといえます。近親者に対して多くの人がいだく心は親愛の情であるのが普通です。したがって、すべての人類が自分にとって過去の世にいつか親であったり兄弟姉妹であったり子であったのだと、あらゆる人が自覚するならば、それは、この世界で、人間同士が“愛”と“慈悲”の関係で結び合い、平和に暮らしていくために、強靱な基盤になることでしょう。
3  私は、キリスト教も、万物を創造した神を立て、全人類は最初の人であるアダムとイブの子孫であるとすることによって、兄弟愛を教えていることを知っています。ここで基盤になっているのは、アダムとイブという共通の先祖であり、このアダムとイブは絶対神によって創られたという“神話”です。それに対して仏教では、私たち人間は、何かによって創られたのではなく、永遠の過去から存在してきたとします。この点について、地球上における生物の進化過程に関する科学的常識と矛盾するではないか、という疑問が出ることがあります。しかし、それについては、さきにも述べたように、生命の存在する世界はこの地球だけに限られないということで説明できます。
 ともあれ、仏教では、神話的な創造の起源によるのでなく、現実に私たちの生命現象が因果の法理に従っている事実から、類推的に、すべての人びとの関連性を示しているのです。どちらがすぐれているということではなく、私にとっては、仏教の考え方のほうがより理解しやすいのです。
 最近、欧米でも、催眠術の応用によって、記憶をどんどん過去に遡ってたどり、ある婦人は、自分が数百年前、フランスのある地方の農家の主婦であった記憶を語ったと聞きます。そこで語られた言葉や生活風景を歴史家が分析したところ、学問的にも裏づけられるものであったということです。また、アメリカでは、ある特殊な能力をもった人がさまざまな病人について過去世をたどって、どのような因によってこのような結果になったのかを述べた記録(ケーシー・ファイル)があり、学者の興味ぶかい研究資料になっているそうです。
 こうしたいくつかのケースは、生命が今世限りでないことを示唆することとして注目されます。死を越えた先のことや、生まれる前のことについては、客観的、科学的に裏づけることが困難ですから、これが学問的にどこまで認められうるかは疑問ですが、私は、自身の実感からも、仏教の考え方のほうが、より多くの現代人に納得できるのではないかと考えています。

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