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日蓮大聖人・池田大作

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愛と慈悲  

「21世紀への警鐘」アウレリオ・ペッチェイ(池田大作全集第4巻)

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1  愛と慈悲
 とはいえ、人間と人間の関係が、常に支配と被支配の関係で律せられているわけではありません。そこには、おそらく他のいかなる生物にもみられない、美しい心の働きによる結合があります。それは“愛”または“慈悲”です。
 “愛”については、キリストがこれを強調し、そこに宗教の精神的崇高さを与えて以来、ヨーロッパの思想家たちによってさまざまに論じられ、解明されてきているようです。この“愛”は、キリスト教の世俗化とともに、たんに男性と女性とを結びつける絆の精神的側面として扱われる傾向にありますが、私は、キリスト教の本来の考え方からいえば、神と人間とを結ぶ絆であったとともに、人間と人間とを結ぶ、最も美しく強い絆として描かれたものと思います。
 キリスト教における“愛”に対して、仏教では“慈悲”を説いています。慈悲とは、元来、すべての人に楽しみを与えることを意味するmaitriと、すべての人の苦しみを抜き去ることを意味するkarunaを合した古代インド語に当てはめられた訳語です。“慈”は愛情を注ぐことであり、“悲”は嘆き悼むことです。
 これは、たとえば母親が熱病に苦しむわが子を見て、同じ苦しみかあるいは本人以上の苦しみを感ずる例によって、説明することができます。それに対して、父親は、わが子が自分と同様、あるいは自分以上に力強く人生を生きていけるようにするため、技や知識・精神力を与えようとします。したがって“慈”は主として父に配せられる属性であり、“悲”は主として母に配せられる特質です。“慈”とは楽を与えることであり、“悲”とは苦を抜くことなのです。
 そして、この“愛”や“慈悲”のゆえに、人は、ときには自らの幸せを抛ち、ときには自己の生存の権利をすら、喜んで捨てるのです。わが子を守るために自らの生命を犠牲にした親たちは、数限りないことでしょう。相手が見知らぬ人であっても、溺死しようとしている人を救おうとして、わが身を顧みず荒海に飛び込んでいった人も、数え切れないほどおりましょう。あるいは、苦しみあえぐ民衆を救うために、死を覚悟のうえで革命運動に加わっていった青年たちも、少なくないはずです。
2  いかなる生命も、自らの生存を守ることを至上目的とするのが、生命の世界の原則です。肉体のあらゆる機能は、生命維持を目的として仕組まれていますし、心の働きも、生命を脅かすものからは本能的に逃れるよう、さらにいえば、そうした危険を未然に察知して避けるようにさえ、巧みに構成されています。極端にいえば、自己防衛と、自己の利益追求というエゴイズムが、生命体に先天的、本能的にそなわっている心身の機能の原理なのです。
 その点から考えると“愛”や“慈悲”のために自己の生命を喜んで抛つということは、生命の本能に反する行為といわなければなりません。しかし、これも、生命に本然的に備わっている働きなのです。ただし、たんに本能の次元でのそれは、さきの利己的本能が個体の保存のためであるのに対し、一定の種属保存のためという域にとどまります。
 したがって、“愛”と“慈悲”の注がれる対象が、たんにわが子や孫、また妻や兄弟といった限られた人びとでなく、あらゆる人びと、あらゆる生き物にわたるためには、たんなる本能的な“愛”“慈悲”から、さらに進まなければなりません。
 といっても“愛”“慈悲”という心の働きそのものが、本能的なその根から離れるべきだということではありません。むしろ、根は本能的次元の深みにつながっていなければなりません。そうした根を失った、宙に浮いたような“愛”や“慈悲”は、言葉としては美しくとも、たんなる観念の遊びにおちいってしまい、いざというときには、利己的本能の強大さにたちまち圧殺されるか、吹き飛ばされてしまうでしょう。
3  本能の深みに根を張りながら、しかも“愛”と“慈悲”があらゆる人びとに平等に注がれるものであるためには、あらゆる人びとが本当の意味で「わが子」であり「私の兄弟」であるというつながりへの、実感をともなう認識が打ち立てられなければならないでしょう。こうした、あらゆる人、あらゆる生き物に対する開かれた認識をもたらすところに、普遍的な“愛”や、一切の生き物に注ぐ平等の大慈悲を説く宗教の目的があったといっても過言ではありません。
 キリスト教は、自らを神の子と称え、すべての人を愛で包むことを宣言したイエスによって創始されました。仏教は、生命の究極の法を覚知したがゆえに仏陀(覚者)と名乗った釈迦牟尼によって打ち立てられ、仏陀は一切の人びとに雨のように大慈悲を注ぐ存在であると説かれています。
 人間の利己的本性、とくに前述した支配欲のもたらす危険性がますます増大していくなかにあって、それを食い止める力は“愛”と“慈悲”の利他的な力を深める以外にないことは明白です。では、この“愛”と“慈悲”を教えている諸宗教は、人間の滅亡の運命を克服することが、果たしてどのようにして可能なのか、あるいは、その有効な働きが発揮されるにはどのような条件が必要なのかを、考えてみなければなりません。

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