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日蓮大聖人・池田大作

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不渡余行法華経の本迹 本因下種の妙法を直ちに修行

「百六箇抄」講義

前後
1  義理上に同じ直達の法華は本門唱うる釈迦は迹なり、今日蓮が修行は久遠名字の振舞に芥爾計も違わざるなり。
 まず表題の「不渡余行法華経」について考えてみたい。ここでいう法華経とは、もはや文上脱益の法華経ではない。寿量文底下種の南無妙法蓮華経のことであります。
 前回にも述べたように、同じく法華経といっても、広・略・要の三種があります。広説の法華経が一部八巻二十八品であり、略説の法華経が方便・寿量品であるのに対し、要説の法華経とは五字七字の南無妙法蓮華経のことをいいます。そのうち広説・略説の法華経が文上、要説の法華経が文底となります。
 表題の「法華経」とは、要説の法華経 南無妙法蓮華経 を意味しております。しかも、この法華経は「不渡余行」なのであります。
 「不渡余行」とは「余行に渡さず」と読む。「余行」とは、具体的には本果妙の仏、つまりインドの釈尊が説き示した四教八教の修行をいいます。すでに述べたように、本果の仏は、妙法を直ちに説くことができず、これを間接的に示すために、四教八教、迹本二門として説かざるをえなかった。これは余行の法門は、本因下種の法体たる妙法の部分部分を取り出して説いた教えにすぎないため、衆生成仏の本源の種子とはなりえないのであります。
 したがって広説・略説の二種の法華経も、要説の法華経よりみるならば、末だ本迹二門というように本因下種の妙法を部分に分かって説いたものであり、そこに立てられた行であるが故に「余行」となるのであります。
 「余行に渡さず」とは、仏道修行においてこれら余行の法門に渡らない、すなわち全く行じないということであります。
 それ故に表題の「不渡余行法華経の本迹」とは、久遠元初の自受用報身如来即日蓮大聖人が本因下種の妙法を、余行を交えずに直ちに行じられた修行のお姿を、「本」と「迹」に立て分けて論じられているのであります。
 本文に入って「義理上に同じ」とあります。「義理」とは意味や内容のことであり、本項の意味内容が前項の「本因妙法蓮華経の本迹」と同じであるとの仰せです。
 では、いかなる点で義理が同じなのでありましょうか。
 「本因妙法蓮華経の本迹」においては、本因下種の法体としての妙法蓮華経の本迹を述べているのに対し、ここではその下種の妙法を修行する立場における本迹を論じられているのであります。
  妙法は本因の下種を明かす故に四教八教の余行を説く必要は全くない。それが前項の「全く余行に分たざりし妙法」ということであり、すでに学んだところであります。その下種の法体たる妙法を修行するうえにおいても、やはり余行に渡る必要は全くない。まさに直達正観である。このように、下種の法体に約しても、また修行に約しても、ともに余行に渡ることはないのであります。そのことを「義理上に同じ」といわれているのであります。
 妙法は諸仏が直達した究極の法
  次に「直達の法華は本門唱うる釈迦は迹なり」とある。
  「直達の法華」とは直達正観の文底の法華経・南無妙法蓮華経のことであります。「本因妙抄」に「文の底とは久遠実成の名字の妙法を余行にわたさず直達の正観・事行の一念三千の南無妙法蓮華経是なり」とお示しの通りであります。「直達正観」とは直ちに正観に達することであり、速疾頓成・即身成仏」と同じ意味であります。
  その直達の妙法が「本門」であるとの仰せなのです。それに対して、妙法を唱うる釈迦は「迹」となる。ここで「釈迦」といわれているのは文底の釈尊、すなわち久遠元初の自受用報身如来のことであります。
  久遠元初の修行における人と法とを本迹に立て分けて論じられているが故に「釈迦」と表現されているのであります。そのことは「総勘文抄」の「釈迦如来・五百塵点劫の当初・凡夫にて御坐せし時我が身は地水火風空なりと知しめして即座に悟を開き給いき」との表現や、同じ「百六箇抄」の「久遠名字の正法は本種子なり、名字童形の位、釈迦は迹なり」の表現など、これまで学んできた文に照らして明らかでありましょう。
  さて、この場合の本迹の立て分けが、久遠元初自受用報身如来の生命にはらまれた内証と外用の立て分けであることは、もはや論ずるまでもありません。
 妙法を唱うる釈迦、とはまさに久遠元初自受用報身如来即日蓮大聖人の外用の姿であり、振る舞いであります。それ故に「迹」となる。だがその内証には、直達の法華すなわち宇宙と生命の究極、南無妙法蓮華経の一法が脈打っているのであり「本門」となるのであります。
 では、何故に南無妙法蓮華経を「直達の法華」といわれたのでありましょうか。
 それは妙法が、三世諸仏が直立したこころの究極の法体であるからであり、同時に一切衆生が直達したこころの究極の法体であるからであり、同時に一切衆生に直達の正観を得させる力を内包されているからであります。
 「当体義抄」に「至理は名無し聖人理を観じて万物に名を付くる時・因果倶時・不思議の一法之れ有り之を名けて妙法蓮華と為す此の妙法蓮華の一法に十界三千の諸法を具足して闕減けつげん無し之を修行する者は仏因・仏果・同時に之を得るなり」とあります。
 すなわち、妙法は因果俱時・不思議の一法であるとの仰せである。それ故、この妙法を行ずるとき、仏因・仏果同時に得ることができるのであります。
 久遠元初における日蓮大聖人は、名字凡夫の姿のまま妙法を唱えられると同時に、直ちに正観に達せられたのであります。まさに「直達の法華」とは、妙法にはらまれた、仏因と仏果とを因果俱時ならしめる妙なる力を指しているのであります。それはまた、久遠元初の自受用報身如来即日蓮大聖人の生命に脈打つ一法でもある。
2  宇宙生命の根源に直接触れる
 このことは、私たちの立場にもそのままあてはまるのであります。
 私たちが御本尊に南無妙法蓮華経の題目を唱えるとき、直接、宇宙生命の根源に触れることができ、それを基点として生活や社会の場に打って出ることができるのであります。
 これは私たちに約した直達正観であります。そこでこの直達正観の「直達」について少々考えてみたい。
 「直ちに達する」の「直ちに」は、さまざまな意義が考えられるが、まず「速やかに」とも表現されるように、時間的な速さを意味しております。先にあげた「速疾頓成」も、また法華経如来寿量品の「速成就仏身」も、共に速やかに成仏する、との意味であります。これは長遠な時間を要する歴劫修行に対する意義であります。
 歴劫修行の場合は、仏因と仏果の間が因果異時である。九界の衆生ははるか彼方に仏界の到達点を目指しながら、限りなく修行を積み重ねていかなければなりません。そこに漂うものは、果てしなき仏道修行の道程に対する嘆息であり、あるいは絶望的な悲嘆かもしれない。しかし歴劫修行には、必ず仏果に到達するとの保証はどこにもないのであります。
 これでは、いかに仏法が民衆救済を叫んでも、現実に衆生を救い得る力とはなりえない。ここに直達の正観すなわち速疾頓成を説く法華経、なかんずく日蓮大聖人の仏法が、出現したことのありがたさがあるのであります。
 衆生の生命の奥底には久遠元初以来、仏因と仏果とを因果俱時ならしめる妙法が厳然と貫かれていた。この妙法を唱えるとき、九界の衆生の仏因は速やかに仏果に達するのであります。
 爾前経においては、この衆生の生命の奥底に貫かれた因果俱時・不思議の妙法をあらわしていない。修行の目標としての民衆を生命の外側に置かざるをえなかったし、その故にそこに到達するための修行として歴劫修行を説かざるをえなかったのでああります。
 これに対して法華経は、仏果を凡夫の生命の内側に脈打つ実在と捉えた。だがそこにはこの仏果の体を説きあらわさず、文底に秘沈されていた。これを日蓮大聖人は初めて取り出してあらわされ、三大秘法の仏法として樹立されたのであります。それ故に大聖人の仏法においては、いかなる人も速やかに成仏することができることとなったのであります。「成仏」とは「仏に成る」ことではなく「仏と成る」と読まれたのも、まことにここに由来するのであります。
 この歴劫修行と直達正観との相違を明らかにするために、今、一つの身近なたとえを述べてみよう。
 ありえないことだが「悲しみ」を知らない人が仮にいたとしよう。それを生命の外にある対象とし、悲しみはいかなる精神現象か、何を縁として起きるか、それに伴う肉体的な現象は何かなどを研究しようとする。あらゆるケースを分析し、認識し、理解したとしても、なおかつその悲しみそのものに迫ることは難しいでありましょう。それはまさに歴劫修行にも等しいと思う。
 ところがひとたびその人が、愛するものを失うなど悲しみを体験したとき、探し求めてきたものを即座に悟るのであります。思い描いたものと異なるかも知れないし、似たものであるかもしれない。しかし、いかなる分析や認識とも違った圧倒的な実感をもって「悲しみ」の本体を知るでありましょう。そのとき、もっとも自分の生命の内にあった「悲しみ」の感情が実際に現れたことを知るにちがいない。これが直達の正観にあたるといえないであろうか。
 成仏の問題は、このたとえよりももっと深遠で重大であります。しかし直達の正観も、所詮は自らの内に脈打つ妙法に直接触れ、我が身即妙法の当体であることを実感することに尽きるのであります。
3  民衆と妙法を直結させる仏法
 ともかく「直ちに」は、時間的な速さを意味するのであります。だがそればかりではない。「直ちに」はまた、すでにこれまでにも触れたごとく、直接、直結の意味がある。
 この意味では極めて重大であります。すなわち日蓮大聖人の仏法は、私たちを妙法と直ちに結ぶことを説く、言い換えれば法と人との直結を説くのであります。それは同時に、御本尊と私たちの間にはいかなる媒介物も存在しないということを表すのであります。

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