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日蓮大聖人・池田大作

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はじめに  

「百六箇抄」講義

前後
1  新春、昭和52年、希望に満ちた開幕、まことにおめでとうございます。
 この一年もまた、妙法の兄弟である同志の皆さまが、色心ともに凛々しく明るく活躍されますよう、心より御祈念申し上げます。
 さて、本年「教学の年」の意義に因み「大白蓮華」誌上に、新年号から「百六箇抄」の講義を展開していくことにいたします。
 思えば私は、会長就任より2年後、昭和37年の8月31日より、約5年間にわたり、学生部の代表に「御義口伝」を講義しました。また、その間、昭和38年7月19日より、2年間にわたり、当時の京大生の代表に「百六箇抄」の講義をしていたのです。
 すでに「御義口伝」は、上下二巻の講義録としてまとめられましたが、「百六箇抄」の講義については、一切活字にはしておりませんでした。
 以前から、ぜひ機関誌紙に掲載してほしいとの強い要望がありましたが、大事な書であるだけに、慎重を期していたわけです。
 もとより「百六箇抄」は相伝書であり、その本義について、私は私なりに凡夫相応の立場から、時代・社会への展開も含めて講述したのです。
 思い起せば、昭和30年前後、戸田先生から、数十名の教授に対して重要御書の研究担当を命ぜられたことがありました。そのとき私の担当した御書が、この「百六箇抄」でありました。
 そのとき、先生から幾度となく、この御抄の読み方に対し、厳しいばかりの指導をいただきました。今でも、その当時のことが忘れられません。当時使用していた私の御書の「百六箇抄」の部分には、それらの多くの書き込みがあり、懐かしいものです。
 なお、掲載にあたり、京大生への講義内容を吟味し、筆を加えさせていただきたい次第です。
2  文底秘沈の法門を明かした相伝書
 講義に先立ち、簡単に「百六箇抄」について述べておきます。「百六箇抄」は、末法の御本仏日蓮大聖人より、第二祖・日興上人に口伝された相伝書であり、「本因妙抄」と併せて、両巻抄ともに血脈抄とも呼び習わされてきました。重書中の重書であります。
 残念ながら「百六箇抄」の御真筆は残されておりませんが、伝承の経過をみれば、大聖人から日興上人への口伝書であったことは明らかであります。その点について概略触れれば、「百六箇抄」の末文によると、
  弘安3年正月11日、日蓮大聖人より日興上人へ
  正和元年10月13日、日興日尊に之を示す
  康永元年10月13日、日尊、日大日頼に之を示す
 となっております。
 要法寺の日辰の祖師伝には、日尊伝として、日興上人から日尊に、また日尊から日大と日頼に付嘱したと示されています。
 日精上人の富士門家中見聞上には、日興上人から血脈の相伝を、日目、日大、日順、日尊の四人が受けたと記されています。
 現存する写本は、要法寺日辰と妙本寺日我のもの、大石寺の日俊のものがあります。
 なお、御真筆は北山本門寺にありましたが、紛失した経緯については、西山本門寺との反目の際、武田勝頼家臣の理不尽な振舞いにより、宝物持ち去られ、それが後に返却されたものの「血脈抄」等がなくなっていたようであります。そのときの「本尊以下還住の目録」に「百六箇」「旅泊辛労書」「三大秘法書」「本門宗要抄」「本因妙抄」は御本書紛失、写しのみ御座候。との記載があります。
 とにかく、相伝書であっただけに「百六箇抄」の内容は、大聖人の仏法における文底深秘の法門を説き明かして余すところなく、釈迦仏法と日蓮仏法との、厳格なまでの種脱相対を白日のもとに照らし出して、一点のかげりもないといえましょう。
 これこそ、末法の御本仏・日蓮大聖人の胸中に燦然と輝く独一本門の赤光であり、濁悪の未来を照らす久遠の太陽であるとの確信を深くするものであります。
 その意味からも、私たちは、純粋にして強盛なる信行学の結晶をもって、本書を身口意の三業にそめて拝読しなければならないと思うのです。口伝書なるが故に、三千年にならんとする仏法哲学の究極の結論が、無限の法義をはらんだ珠玉のごとき短文となって表出されております。思索に思索を重ね、如説修行の実践に実践を貫いた生命で、本書に脈打つ血脈の奥義に迫り、その脈動する血潮を我が生命の奥底に刻み込んでいくという不退の決意で、本書に取り組んでいきたいものであります。
3  全編にみなぎり人類救済の大情熱
 ここで「百六箇抄」の構成について一言しておきたいと思う。
 本抄の全体を通覧して気づくと思いますが、本抄の骨格は、脱に50箇、種に56箇の本迹を立ち分けて論じられております。この部分は、日蓮大聖人から日興上人に直接、血脈相承された口伝そのものであります。
 この脱の50箇、種の56箇ということにつて、簡単に申し上げれば、「脱益仏法の本迹」と「下種仏法の本迹」とは、ほとんどすべて相対した形で論じられております。
 例えば、脱益の最初の「理の一念三千・一心三観本迹」の項目は、下種益の最初の「事の一念三千・一心三観本迹」並びに「下種人天の本迹」と相対させることができます。そのほかの、大部分の項目では、脱益と下種益の項目は、一対一に対応しております。
 しかし、脱益仏法とは相対しない下種仏法における項目もあります。それは「下種三種法華の本迹」「四土具足の本迹」「下種境智俱実の本迹」の三項目です。
 その理由は、下種益の本迹は、脱益の本迹を一応の基盤としながらも、大聖人の仏法と釈迦仏法の勝劣を論じたものであり、故に、下種益の本迹を述べるにあたって、たとえ脱益の本迹に該当する項目でなくても、独一本門の立場を鮮明にするために、必要不可欠な要項として立てられたものと思われます。
 「下種三種法華の本迹」と「四土具足の本迹」では、迹本文底と立て分けられています。故に脱益での迹と本の勝劣は、この中に含まれてくる。下種益の個所で脱益の本迹も包含して述べられておられることがわかります。
 「下種境智俱実の本迹」は、境智に約しての結論であり、すなわち下種の立場からの、「百六箇抄」全体にわたる結論であると拝せましょう。
 次に、本抄には、歴代の閲覧者が「百六箇抄」を拝読し、一種の「覚え書き」として挿入、付加された部分が、織り込まれており、「創価学会版御書全集」もこれらの付加が、日蓮大聖人の血脈を受け、大聖人の口伝を一点の誤りもなく後代に伝えるとの意味から、行間、本抄の前後、各項目の注釈として書き込まれたものを編纂しています。この部分も、私たちが大聖人の口伝を体得していくうえにおいて、不可欠の記述といえましょう。
 この講義にあたっても、百六箇条の口伝はもとより、付加の部分も、すべて大聖人の金口として拝していきたいと考えております。なお、御書全集では、口伝そのものを大活字で、付加の部分を小活字で組むという体裁をとっております。
  いずれにしても、本抄の全体に、日蓮大聖人の人類救済にかける、烈々たる大情熱がみなぎっている事実に刮目していただきたいのであります。

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