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日蓮大聖人・池田大作

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「池田華陽会」の前進を喜ぶ 「青年の誓い」に生きる誇り

2008.5.1 随筆 人間世紀の光5(池田大作全集第139巻)

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1   美しき
    華の心に
      燦々と
    太陽かがやき
      君らを包まむ
 天も晴れ、心も晴れて、栄光燦たる「五月三日」を迎えることができた。
 私は、全世界の尊き同志の皆様方に感謝し、万感込めて「創価学会の日、万歳!」「創価学会母の日、万歳!」と叫びたい。「5・3」は、創価の師弟にとって、誇り高き凱旋の日である。そして新たな勝利へ勇敢に出陣する日である。
 溌剌たる、快活な魂を先頭に、永遠に前へ!
 イギリスの若き詩心の乙女エミリー・ブロンテは歌った。
 「わたしたちの魂はみな神聖なのです」
 「天の太陽はあなたのなかに輝いています」(「A・G・A A・Sによせて」川股陽太郎訳、『ブロンテ全集』2所収、みすず書房)
 創価の新時代の到来を告げて、太陽の女子部の乙女たちが晴れ晴れと、平和のために乱舞している。
 喜びが爛漫と広がるなか、広宣流布の第二幕を開きゆく、師弟不二の若き花のスクラムが完全に出来上がった。
 女子部の「池田華陽会」の結成である。
 この創価の姉妹の連帯は、今回のメンバーを第一期生として、さらに第二期生、第三期生と、美しく尊く、滔々たる人材の大河となって、流れ通っていくに違いない。
 その実像は、まことに気高く麗しい。
 新しき時代が来た!
 新しき世紀が来た!
 世界の広宣流布の山々が見えてきた。
 何と嬉しいことだろうか。本当におめでとう!
 結成の意義を留め、清らかな心の女子部の皆さんから、「華陽時計」も届けられた。
 「華陽」という名前は、光り輝く「太陽」に照らされながら、人びとの心に限りなく神々しい感動を贈りゆく「華」を象徴したものだ。
 この華陽時計と一緒に、皆様方は、かけがえのない青春の幸福と平和の調べを、奏でていただきたい。
 私も妻と共に、若々しく、あまりにも美しき心の女子部の成長と活躍を見つめながら、世界の広宣流布の新しき大前進の"時"を確実に刻み始めた。
2   広宣の
    戦に姫と
      舞いに舞い
    華陽の歴史を
      創価城にとどめむ
 「広宣流布は、女性で決まる」──これが、恩師・戸田城聖先生の大確信であった。
 一九五二年(昭和二十七年)の秋、その師によって結成され、手づくりで育まれた女子部の人材育成グループこそ「華陽会」である。
 蓮祖は、女性門下の日眼女への御手紙の中で、こう仰せである。
 「明かなる事・日月にすぎんや浄き事・蓮華にまさるべきや、法華経は日月と蓮華となり故に妙法蓮華経と名く、日蓮又日月と蓮華との如くなり
 妙法を受持し、大聖人の仰せのままに、広宣流布に生きゆく創価の乙女の命それ自体が、最も明るい「太陽」であり、最も浄らかな「蓮華」である。
 すなわち「華陽」そのものの生命なのである。
3   仏勅の
    宝石煌く
      華陽会
    一人も残らず
      三世に光れや
 一九五八年(昭和三十三年)の四月、恩師が逝去された時、女子部は三十八の部であった。
 それが、一カ月後の五月三日には、新任の女子部長の誕生とともに、五十の部へと拡大していったのである。
 この新・女子部長は、入会の時から、私の妻が励まし続けてきた親友であり、同志であった。その女性リーダーこそ、多田時子さんであった。
 亡き恩師に代わって、私が初めて華陽会の会合に出席したのは、この年の十月に、箱根の芦ノ湖畔で行われた指導会であったと思う。
 当時、私は、事実上の学会の中心である、ただ一人の「総務」として、広宣流布の全責任を担っていた。この時の参加者の半数以上が、新しく加わったメンバーたちであった。
 女子部は、ぐんぐんと伸びていった。さらに二年後の一九六〇年(昭和三十五年)の五月三日、私が第三代会長に就任した時には、二倍を超える百八の部へと大発展を遂げたのである。
 古代ギリシャの詩人ピンダロスは歌った。
 「あの女性の勇気とすぐれた力を
 嘆賞せよ。いかに彼女は、恐れを知らぬ頭を上げ戦っていることか!
 乙女であるが労苦に負けぬ心を
 持っている」(『祝勝歌集/断片選』内田次信訳、京都大学学術出版会)
 全同志は、若き乙女たちの躍進に目を見張り、限りない希望を感じ取っていった。

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