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日蓮大聖人・池田大作

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青年の陣列の拡大(上) 一切の勝利は「人材」で決まる

2008.2.9 随筆 人間世紀の光4(池田大作全集第138巻)

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1   逞しき
    正義の創価の
      青年が
    歴史の幕をば
      開かむ力よ
 「人です。すべては人にあります」(『三国志』3、『吉川英治全集』26初秋、講談社)
 これは、恩師・戸田城聖先生のもとで学んだ小説『三国志』(吉川英治作)で、諸葛孔明が語る言葉である。
 あの有名な「赤壁の戦い」(二〇八年)に勝利した直後、国を勝ち栄えさせゆく道を尋ねた劉備玄徳に対して、軍師の孔明が明言したものだ。
 一切は、人材で決まる。
 今年(二〇〇〇年)は、「日中平和友好条約」の調印から三十周年──その祝賀行事として、八王子の東京富士美術館で「大三国志展」が開催される運びとなっている。
 そこには、千八百年前の「赤壁の戦い」の遺跡等で発見された貴重な鏃(やじり)や剣なども出品されると伺っている。心から大成功を祈りたい。
 ともあれ、北の曹操の「魏」は、時の朝廷と結び、「天の時」を得ていた。
 孫権の「呉」は、豊かな江南に「地の利」を誇っていた。
 その両国に対して、劉備の「蜀」は、「人の和」つまり「団結」をもって、西に揺るぎなき陣を張る──。
 この歴史に名高い「天下三分の計」にあって、諸葛孔明が国づくりの根幹としたもの、それこそが「人材」であった。
 戸田先生も、『三国志』を通して、よく言われた。
 「小粒の、ろくでもない人物はだめだ。
 英雄は人材を愛する。人材を愛さなければ、英雄の役目は果たせない。
 創価学会も、人材をもって城となすのだ」と。
 この指導通り、「広宣流布の闘争の人材」「正義の信念の人材」「平和の創造の人材」をば、幾重にも広げ抜いてきたからこそ、学会は勝ったのである。
2  それは、一九五三年(昭和二十八年)の厳寒の二月であった。ちょうど五十五年前の歴史になる。
 二十五歳の私は、前年の蒲田支部の"二月闘争"に続いて、新たな「人材・拡大」の先頭を走りに走っていた。ヤング男子部の如き、猛然たる勢いであった。
 この年の年頭、師より男子青年部の「第一部隊長」の使命を拝して二ヵ月目。
 それは、会員七十五万世帯という恩師の願業の達成へ、共に戦う青年を糾合し、新たな人材をつくり、育てるという必死の激闘であった。
 「師匠・戸田先生は、真実の弟子が澎湃と出現することを祈り待たれている。先生の前に、若き正義の弟子の陣列を揃えてみせるのだ!」──これが私の決心であった。
3   堂々と
    いざや勝ち征け
      進み征け
    千軍万馬の
      人材雄々しく
 この年の「人材・拡大」の目標は、明確であった。
 わが第一部隊として、年末までに「部隊一千人」の陣列の構築──これである。
 私が部隊長に就任した時点では、部員は、墨田、江東、江戸川などを中心に点在し、六班で三百人余りの陣容であった。ゆえに、三倍以上の大拡大となる。
 私自身、地元の蒲田を離れ、"派遣"である。
 容易な戦いではないことは明らかだった。しかし、戸田先生の大誓願に向かって、一段と青年の結集を加速せねばならない時であった。
 蒲田支部が広宣流布の突破口を開いたように、青年部でも、どこか一カ所が拡大の模範を示せば、その波動は必ず日本中へ広がる。
 「大作に託せば、必ず、やってくれる」──これが、私を「第一部隊長」に任命された戸田先生の信頼であり、確信であった。
 広宣流布の大師匠が命じられた戦いに、不可能はない。我々には「法華経の兵法」(御書1193ページ)がある。根本は一人ひとりが燃え上がる信心で立つことだ。
 そのために、共に戦ってくれる中核の同志が、「これならば勝てる!」と、確信をもって進軍を開始することが、不可欠であった。
 まず私は、それまでの六班の体制から、新たな班長も登用して、一気に十班へと再編・拡大し、十人の班長に「部隊十傑」の称号を贈った。
 戦いに勝つためには、何にもまして「核を固めること」が鉄則であるからだ。
 この十人の班長のもとに、今度は、それぞれが十人の分隊長の登用をめざす。つまり「部隊百傑」の構築を当面の目標に掲げたのである。
 そして、総仕上げとして、百分隊がそれぞれ部員十人を達成すれば、「人材一千人の正義の陣列」となる。
 ゆえに、大きい数字などに浮き足立つ必要は何もない。一人また一人と、新たな青年を大切に糾合していくのだ!
 その先に、必ず勝利があることを確信し、一致団結して、出陣したのである。

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