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日蓮大聖人・池田大作

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永遠なれ栄光の五月三日(下) 創価の師弟は堂々勝ちたり

2007.5.4 随筆 人間世紀の光4(池田大作全集第138巻)

前後
1   勝ちまくれ
    走りまくれと
      万年の
    後輩たちの
      模範 創れや
 御義口伝に「大願とは法華弘通なり」と仰せである。
 慈折広宣流布こそ、創価の師弟の大誓願である。
 私は、故郷・大田を中心とした蒲田支部の同志と共に、一カ月に二百一世帯という、前代未聞の折伏を成し遂げた。
 さらに当時、低迷を続け、馬鹿にされていた文京支部を、半年ほどで、月に四百三十一世帯の拡大ができる第一級の支部へと前進させた。
 男子部の第一部隊は、一年で、当初の三倍に当たる千人の大結集をした。
 牧口先生、戸田先生の郷土である北海道でも、札幌の日本一の夏季地方折伏をはじめ、破邪顕正の勝利の歴史をつくり上げていった。
 戸田先生の会長就任五周年の五月には、大関西で月間・一万一千百十一世帯の金字塔を厳然と打ち立てた。
 中国方面の山口県でも、十倍の飛躍をもたらした。
 そして私が全青年部の先頭に立って戦い、七十五万世帯の達成を、師にご報告できたのは、昭和三十二年の十二月である。
 ともあれ、御聖訓には──「よき師」と「よき弟子」と「よき法」の三つが合致すれば、必ず祈りを成就できると明言なされている(同五五〇ページ、趣意)。
 広宣流布の師の一念と心を合わせ、「法華経の兵法」で戦うならば、断じて勝てるのだ。
 私は、戸田先生にお仕えし抜いた十一年間を通して、この「絶対勝利の信心」を完壁に証明できたと自負している。
 古代ギリシャの哲学者アリストテレスは言った。
 「もし誰か他の人が、自分より徳において、また最善のことを実行する力においてまさっているなら、その人に従い服することがりっぱで正しいことである」(『政治学』田中美知太郎・北嶋美雪・尼ヶ崎徳一・津村寛二訳、『世界の名著』8所収、中央公論新社)
 師弟に徹することは、人間として最も正しく、最も強い生き方なのだ。
2   負けるなと
    断じて指揮とれ
      師の声は
    己の生命に
      轟き残らむ
 フランスの作家サン=テグジュペリの言葉に、「敗北はつくられてきたものを打ち壊す」(『戦う操縦士』山崎庸一郎訳、『サン=テグジュペリ・コレクション』4所収、みすず書房)とある。敗北は崩壊だ。ゆえに戸田先生が逝去された後、私は先生の弟子として一歩も退かず、勝利また勝利の師子奮迅の指揮を執り続けた。
 会長職が不在だった学会にあって、第三代を推戴する声は既に澎湃と広がっていた。
 「第三代会長の推戴を急げ!
 学会の首脳たちは何をしているのか!」
 愛する関西からも、真剣な青年部からも、創価の母である婦人部からも。
 なかでも真っ先に声を上げたのは、埼玉県の青年部員たちである。
 それも、都市部だけでなく、郡部など、当時、交通の便のよくない地域から始まった。
 「真の革命は地方で起こっている」(『ホセ・マルティ選集』2、青木康征・柳沼孝一郎訳、日本経済評論社))とは、キューバの偉人ホセ・マルティの箴言だ。
3   五月さつき晴れ
    創価と広布の
      かんばせ
    生きる喜び
      楽しき旅路と
 縁も深き神奈川の同志たちは、墨田区の両国・日大講堂での会長就任式の準備の一切を担ってくれた。
 壇上の真上には、戸田先生の毅然たる遺影。
 その左右には、先生の二首の和歌が大書され、掲げられていた。
  「いざ往かん 月氏の果まで 妙法を
     ひろむる旅に 心勇みて」
  
  「一度(ひとたび)は 死する命ぞ 恐れずに
     仏の敵を 一人あますな」
 屋外を飾る大看板。会場内五十カ所近くに飾られた花々。ちり一つ残すまいと、真剣に裸足のままで掃除をしてくださった婦人部や青年部の方々。そして女子部の友は、わざわざ菊花の胸章を探し回ってくれた。
 来る年、来る年、五月三日を荘厳してくださる全同志の真心は、瞬時たりとも私の生命から離れることはない。
 庶民のなかから、庶民のために、庶民の第一の味方として誕生した、第三代であるからだ。

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