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日蓮大聖人・池田大作

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「3・16」に弟子は立つ 広布後継は諸君に託す

2007.3.16 随筆 人間世紀の光4(池田大作全集第138巻)

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1   青春の
    スクラム固く
      朗らかに
    大満足の
      土台 築けや
 「生きてゆくには確固たる根が必要である」(『合衆国の印象』青木康征訳、『ホセ・マルティ選集』2所収、日本経済評論社)。これは、″キューバ独立の父″ホセ・マルティの不滅の叫びだ。
 わがキューバの同志たちも、この「3・16」を、それはそれは仲良く、朗らかに祝賀してくれている。
 確かなる哲学の根を張った人生は強い。絶対に行き詰まらない。
 『宮本武蔵』の小説で有名な吉川英治はつづった。
 「人間のほんとの成長とは、たれも気のつかないうちに、土中で育っている」(『新・平家物語』2、『吉川英治全集』33所収、講談社)
 大変に手応えのある言葉であった。誰も知らぬ大地の下で鍛えられてこそ、勝利の花が開くのだ。
2  それは、一九五八年(昭和三十三年)の三月一日のことであった。
 空は晴れていた。
 先師である戸田城聖先生が発願され、建立なされた大講堂の落慶の式典は、多数の来賓を迎えて、明るく滞りなく行われた。
 階上に上がるため、エレベーターにご一緒した。柏原ヤスさん、森田一哉君の二人が同乗していた。
 先生は、私の目を、じっとご覧になりながら言われた。
 「これで、私の仕事は終わった。私はいつ死んでもいいと思っている。大作、あとはお前だ。頼むぞ!」
 それから一週間が過ぎた頃、時の岸信介首相から、三月十六日の日曜日に、個人的に総本山を訪問したいと連絡が入った。岸首相は、戸田先生の親しき友人であった。
 先生は即座に私を呼ばれ、「よい機会だ。この日に、青年部を結集させようじゃないか。将来のために、広宣流布の模擬試験──予行演習ともいうべき式典をしたらどうか」と命じられた。
 希望も明るき未来の世代を見据えた、師の甚深なる構想であった。
 「三国並に一閻浮提の人・懺悔滅罪の戒法のみならず大梵天王・帝釈等も来下して
 これは、弘安五年(一二八二年)の四月八日、日蓮大聖人が弟子の大田金吾に送られた、有名な「三大秘法抄」の一節である。
 広宣流布の暁には」大梵天王や帝釈など、法華経の会座に列なった諸天善神も、みな集い来ると仰せなのである。
 仏法は、抽象論ではない。現実に即していえば、大梵天王等は、国家、世界の指導者層といってよいだろう。
 法華経は一切衆生の成仏を説いた、万人を幸福にしゆく法理である。その妙法の慈悲と智慧を社会に脈打たせていくことが、広宣流布である。
 天台大師は示された。
 「一切世間の治生産業は皆実相と相違背いはいせず
 日蓮大聖人は明かされた。
 「智者とは世間の法より外に仏法をおこなわず、世間の治世の法を能く能く心へて候を智者とは申すなり」と。
 仏法の理念と、政治や経済が本来めざすべき目的観は、根本において一致している。
 「宗教は精神生活と文化の本質的な要素」「宗教は個人と社会を道徳的に導く」(カレル。チャペック『マサリクとの対話』石川達夫訳、成文社)──これは、チェコの哲人政治家マサリクの叫びであった。
 正しき信念の行動を貫いている第一級の指導者たちが、大仏法の人間主義に共感し、賛同する時代は、必ず来る。それは必然の流れなのだ。
 師は私に厳然と言われた。
 「この意義深き式典は、仏法で最も大事な広宣流布の後継を、青年に託す機会にしようと、私は思っている」
 私の胸は熱くなった。私の心は新しき光が輝いていった。断じて、師弟不二の峻厳な、永遠に残るべき儀式とせねばならぬと思った。
 いな、私は一人、深く覚悟を新たにした。
3  この前年の十月、千駄ヶ谷の東京体育館で"総理を囲む青年の夕べ"が行われた。
 私も時間をつくり、青年の一人として参加してきた。
 すると、実際には、若き青年の出席者は半数もいないように思えた。一国の総理を囲む"青年の夕べ"としては、あまりにも侘しかった。
 戸田先生に、私はその様子をつぶさに報告した。
 師は、詳細にわたって深く聞き入っておられた──。
 常に厳しい師匠であられた。間違ったり嘘をついたりするような弟子たちを、厳しく叱られ、信用しなかった。
 ともあれ、それから半年にして、総理来訪の動きとなったのである。
 わが青年を見よ!
 わが弟子を見よ!
 先生自身が手塩にかけた若き弟子たちを、時の指導者に明確に知らしめたかったのであろう。
 新しき時代を建設してゆかんとする、威風堂々たる創価の青年の熱と力に触れれば、首相も瞠目し、必ずや日本の未来に希望の光を確信できるはずだ──と。
 私は、先生の御心を心として準備に奔走した。私との絶妙な呼吸で、全青年部も一丸となって大回転を始めた。
 先生は、常々言われていた。
 「一日一日が真剣勝負だ。連絡に時間がかかるようでは、組織は死んでいる」
 「いざという時、広宣流布の戦場に駆けつけられるか、どうかだ」
 今のように携帯電話もなければ、メールもない。だが、「3・16」の連絡は、電光石火で日本列島を駆け巡った。
 首都圏から五千人、静岡県を中心に千人が集い、さらに、各方面の代表も参加することになった。即座に、輸送の体制も万全を期した。
 先生は、青年たちが来客の指導者の人格や振る舞いを見て、何かを掴み、何か勉強できるという思いであられることを、私は深く直感していた。
 私も、世界の国家指導者や識者をお迎えする時は、必ず青年たちと歓迎している。それも、この戸田先生の精神を受け継いでのことである。

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