Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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創刊55周年を祝す 正義の獅子吼こそ聖教の魂

2006.4.20 随筆 人間世紀の光3(池田大作全集第137巻)

前後
1  春の初めの悦びは――
 「木に花のさくがごとく
 そして「山に草のおい出ずるがごとし」。
 これは、御聖訓の一節である。
 東京は葉桜の季節となったが、雪深かりし地域にも桜前線が北上し、春の勝利が列島を包んできた。
 「平成十八年豪雪」と命名された、この冬の雪は、尋常ではなかった。
 私も妻も、その大雪のなか、聖教新聞を配達してくださる「無冠の友」の皆様方の絶対無事故を祈りに祈ってきた。
 販売店や輸送に携わってくださる方々も断じて無事であれと、題目に力がこもった。
 記録的な豪雪の被害で、新年早々、新潟県の津南町や長野県の栄村が、一時孤立したことは記憶に新しい。
 その栄村では、ある婦人部の配達員の方が、雪の壁に囲まれたなかを、リュックサックに聖教新聞を入れ、オニギリや飲み物などを持参して、何時間もかけて、徒歩で配達してくださった。
 そして、聖教新聞を配りながら、ご高齢の方や、雪かきをしている人たちに、「大丈夫ですか」「風邪はひかれてませんか」「頑張りましょうね」と、一軒また一軒、声をかけて歩かれたという。
 まさに、聖教新聞とともに、地域に励ましの春風を送り、勇気と希望の花を咲かせてくださったのである。
 来る朝も、また来る朝も、全国の津々浦々、かくも素晴らしき友の熱い真心によって、読者の方々の手に届けられている。
 その人間主義のぬくもりこそ、我らの聖教新聞の誇りといってよい。
2  今日四月二十日、聖教新聞は、「創刊五十五周年」の佳節を迎えた。
 今や、日刊五百数十万部。
 聖教の創始者であられる、恩師・戸田城聖先生が「この新聞を、日本中、世界中の人に読ませたい」と念願された通りになった。
 創価の師弟不二の輝かしき実証を、厳然と偉大な歴史として刻めたことは、なんと嬉しいことか。
 ある大学の著名な教授は、毎朝の聖教新聞に報じられているニュースや論調を、交流を結びゆく世界の各大学の教授たちに、さらに各国で活躍する多くの教え子たちに、メールで発信することを楽しい日課にしておられると伺った。
 聖教を守り、支えてくださる、すべての方々に、私は最敬礼して、心から感謝申し上げるものである。
3  「虚偽を否定し真実を確立する」(『書簡』中、米川正夫訳、『ドフトエフスキー全集』17所収、河出書房新社)――これは、ロシアの大文豪ドストエフスキーがつづった決心であった。
 そして、「真実を率直に語って、悪を悪と呼ばなければならない」(『作家の日記』上、同全集14所収)と。
 真実を刻みつけるペンは、最強の宝剣である。
 人間が邪悪に染まれば、地獄だ。社会が虚偽にまみれれば、民衆は暗い日々であり、まことに不幸である。
 ゆえに、ペンは、正義のために戦うものだ。そして、邪悪と虚偽を戦い倒すことである。
 その時にこそ、正義と真実の旗が、へんぽんと翻ることができるからだ。
 虚偽に対し、徹して反撃を、加えた、忘れもしない人物に、古代ギリシャの指導者デモステネスがいる。
 「史上最高の雄弁家」と謳われたことも、有名な話だ。
 この哲人は、ある言論が"真実"か"誹謗"かを見極めるには、確かな"証拠"や"証人"の有無を問えと、人類に強く語り残している。
 私も、この主張は、よく覚えている。大変に意義深い言葉であるからだ。
 すなわち、"人が発言内容の証拠を出さず、悪意の文言だけを言うのであれば、ただの誹謗だ"(『アンドロティオン弾劾』木曽明子訳、『デモステネス弁論集』3所収、京都大学学術出版会、参照)と喝破したのである。まことに単純にして明快なる真理であると、私は感動した。
 ともあれ、日蓮大聖人は仰せになられた。
 「師子の声には一切の獣・声を失ふ
 聖教の論陣は、まさしく師子吼であらねばならない。
 聖教が戦い叫んだ分だけ、広宣流布は拡大するからだ。
 聖教の思潮とともに、生命尊厳の大仏法は広がり、二十一世紀の「平和と文化の大城」が、晴れ晴れと姿を現し始めた。
 これからが本当の勝負だ。
 活字文化の衰退が叫ばれる今こそ、聖教が、良質の活字文化の復興の先頭に立つことを、多くの識者が深く期待してくださっていることを忘れまい。
 そもそも「文化」とは何か。ドストエフスキーは訴えた。
 「魂を明るく照らし、ハート(=心)を啓発し、知性に方向を与え、それに人生の道を指示してくれる、精神的な光にほかならない」(『作家の日記』6小沼文彦訳、筑摩書房)

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