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日蓮大聖人・池田大作

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「真実」と「虚偽」を語る〔1〕 提婆の大嘘を打ち破れ!

2006.2.8 随筆 人間世紀の光3(池田大作全集第137巻)

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1  嵐にも
   勝利悠然
     富士の山
 「『真実』は、正義と幸福と勝利への光の道である。『虚偽』は、邪悪と不幸と地獄への闇の道である」と叫んだ哲学者がいた。
 古今東西、どれほど多くの善良な人びとが、残忍な嘘によって苦しめられ、陥れられてきたことか。
 人の世に、虚偽がもたらす暗黒は底知れない。
 先般、逝去された文豪・巴金ぱきん先生も慨嘆しておられた。
 「デマは人を傷つけ、その鋭さは刀剣にもまさる」(『病中集』石上韶訳、筑摩書房)と。
 虚偽は、人間の尊厳を踏みにじり、信頼の世界を撹乱し、破壊する魔物の凶器だ。
 「災いな虚偽! あらゆる悪事の因!」(「ワレンシュタインの死」新関良三訳、『シラー選集』4、冨山房)とは、ドイツの詩人シラーの警鐘であった。
 卑劣な虚偽を放置しておくことは、後世に取り返しのつかぬ害毒を流すことだ。
 あの大哲人プラトンは、虚偽によって獄死させられた師匠の真実を厳正に留めるために、『ソクラテスの弁明』をはじめ厖大な書を著した。
 「真実」は「人間の幸福」の大地である。
 「真実」は「社会の正義」の太陽である。
 私と対談集『太平洋の旭日』を発刊した、チリのエイルウィン元大統領も、毅然と宣言しておられた。
 「『真実が君臨する』ことが民主社会の基本なのです」
2  釈尊に反逆した提婆達多。さらにまた、日蓮大聖人に敵対した極楽寺良観。
 この悪逆の二人に共通する魔性は、何であったか。
 それは、「嫉妬に狂った大嘘つき」であったことだ。
 提婆も、良観も、狡猾な嘘の毒を撒き散らして、人びとの心を狂いに狂わせた。
 そして、あらゆる陰謀を凝らして、尊極の正義の仏に汚名を着せ、亡き者にしようと企んだのだ。
 「開目抄」には、「仏と提婆とは身と影とのごとし」、「法華経の行者あらば必ず三類の怨敵あるべし」と仰せである。
 つまり、仏の行くところ、また法華経の行者が広宣流布を進めるところには、身に影の添うが如く、必ず提婆達多のような大嘘つき、また、三類の怨敵が現れる。
 その怨敵から悪口罵詈され、讒言され、迫害されている人こそを、求めて師匠と仰ぐべきである。
 その師とは、大聖人より他に誰もいないではないか――と、「開目抄」には結論されているのだ。
 さらに、ご存じの通り、法華経と御書には「猶多怨嫉・況滅度後」と示されている。
 すなわち、末法が進んだ濁世にあって、正しく妙法を弘めゆく人は、仏が受けた以上の怨嫉の難を受ける。いな、受けなければ、真に広宣流布を実践しているとはいえないという意義である。
 大聖人の滅後において、大法弘通のゆえに、提婆の如き、良観の如き極悪の輩から、大妄語を浴びせられてきたのは、いったい誰か。
 わが創価学会である。なかんずく、初代、二代、そして三代の師弟しかいない。
 これこそ、創価の三代が、釈尊、そして大聖人に直結している証であり、仏意仏勅の正統の誉れなのだ。
3  御書には、貪欲な坊主どもがデマを流す魂胆が手厳しく破折されている。
 例えば、「末代の坊主は、自分が出入りしている檀那の所に他の者を寄せ付けまいとして、無量の讒言を並べ立てる。まるで犬が、ありついた餌を独り占めしようと、いがみ吠えるようなものである」(御書一三八一ページ、趣意)と。
 学会が流されてきた「香典泥棒」の中傷もまた、この御文にまったく符合する。
 このデマが各地で盛んに吹聴されていったのは、昭和三十年代であった。
 それは、戸田先生の願業であった「七十五万世帯」の本尊流布を成し遂げ、私の会長就任とともに「三百万世帯」の達成へ、破竹の勢いで前進した時期に当たっている。
 デマは出所を隠すものであるが、"学会に傷をつければ得をする"連中の仕業であることは間違いあるまい。
 学会の発展に嫉妬し、恐れをなした勢力が、正面からでは学会に太刀打ちできないので、デマを流して嫌がらせを謀ってきたのであろう。
 当時、全国的に「墓地問題」も惹起していた。既成宗派の寺院が、学会員の遺骨の埋葬を拒否した事件だ。
 その裏側で陰湿に流されていったのが、この「香典泥棒」の噂なのである。
 「信教の自由」に対する悪辣この上ない抑圧に、学会は毅然と戦った。この正義の人権闘争の一切の指揮を執ったのも、若き私である。
 「墓地問題」は、裁判でも明確に勝利を収め、さらに、1960年(昭和三十五年)の三月には、当時の厚生省が"宗派が違っても、それだけでは埋葬を断る理由にはならない"との明快な結論を出した。
 「香典泥棒」の中傷も、当初から風聞だけで、まったく何の根拠もなかったことが明白になっている。昭和三十七年四月、このデマを掲載したある新聞は、学会の抗議を受けて、直ちに訂正記事を載せ、公式に謝罪した。
 そもそも、「いつ」「どこで」「誰が」「いくら」香典を持ち去ったというのか。
 それを示す事例など、これまで、ただの一件たりともなかったのである。
 こうしたデマは、断じて見過ごすことのできない重大な名誉毀損である。今後も、学会本部として、断固として対処していく方針であることは申し上げるまでもない。
 近年、学会の清々しい「友人葬」は、時代の最先端として、深い共感を広げている。
 この友人葬に参列された四国の高名な学者は、感銘を込めて書き綴っておられた。
 ――「香典泥棒」などという悪意の噂が、いかに嘘であるか、一目瞭然である。自分は学会員ではないが、亡くなった時は、ぜひ友人葬で送ってもらいたい。今から予約しておきたい――と。
 ともあれ、長年にわたって「墓地問題」、また「香典泥棒」等のデマで、多くの会員の方々が、どれほど嫌な思いをさせられてきたことか。
 だが、その辛労も、今や、すべて福運と変わっている。
 誤解と偏見の氷をとかした分だけ、深い共感と信頼の水かさが増してきた。
 学会員の勇気と誠実は、いかなる邪知も、虚偽も、木っ端微塵に粉砕する力を持っているのだ。
 各地に完成している墓園は、まさしく皆様方の清々しい信心の勝利の城である。

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