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日蓮大聖人・池田大作

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懐かしき山口闘争 築け! 広宣流布の大人材城

2005.10.22 随筆 人間世紀の光3(池田大作全集第137巻)

前後
1  この九月、山口市にお住まいの齋藤清子さんから、丁重なお便りを頂戴した。
 文面からは、かくしゃくとした、お元気な様子がうかがえて、嬉しかった。
 明治の創業以来、百数十年の伝統をもつ、歴史的遺産である、料亭「菜香亭」の五代目主人であられた。
 三十年近く前に一度、地元の同志と共にお目にかかったが、お名前の如く、本当に心のきれいな方であった。
 私が、「またお会いしましょう」と申し上げると、大正生まれの齋藤さんは笑顔で言われた。
 「その時は、私がどれだけ元気であるか、会長さんに見てもらいましょう」と。
 ――残念ながら、多忙のために、なかなかお会いできぬまま今に至ってしまったが、齋藤さんとは、変わらぬ心の交流を続けてきた。
 そして今日も、妻と二人してご長寿を祈っている。
2  この「菜香亭」は、現在、公共の施設となり、「山口市菜香亭」として広く市民に親しまれているそうだ。
 もともと「菜香亭」は、名付け親の井上馨をはじめ、木戸孝允、伊藤博文、山県有朋といった明治の元勲や、岸信介、佐藤栄作という昭和の宰相とのゆかりも深い。
 皆、山口出身である。まさに、近代の山口は、人材山脈の偉観を呈していた。
 だが、民衆の大勝利の夜明けを開きゆく、地涌の菩薩の澎湃たる出現は、意外や、ここ山口では大変遅れていたのだ。
 1956年(昭和三十一年)の九月五日。
 厳しい残暑の午後、私は、学会本部で、戸田先生と広宣流布の協議を行っていた。
 師も、弟子も、考えることは、ただ「広宣流布」の遂行という一点であった。
 この年の五月には、私は、関西で指揮をとり、一カ月で折伏一万一千百十一世帯という金字塔を打ち立てた。日本中の学会員は、再び自身の力を信じながら、師子となって立ち上がり、走った。
 したがって、日本全国の広宣流布の波は、飛躍的に拡大していった。
 学会が生まれ変わった。
 ところが、山口県は、会員わずか四百数十世帯という弱小地域に甘んじていた。
 あの明治維新の火ぶたを切った山口県。
 歴代の日本の総理が多く出た山口県。
 ゆえに今後も、日本の重要な地位を占めていくであろう山口県――。
 その山口から、地涌の菩薩たる広宣流布の闘士が躍り出ないはずは絶対にない!
 つぶさに現状を把握されると、戸田先生は断を下された。
 「中国が一番遅れている。大作、お前が行って、指導・折伏の旋風を起こせ!」
 「はい。やらせていただきます!」
 一瞬の呼吸であった。
3  準備に約一カ月かけ、私が"山口闘争"の第一歩を印したのは十月九日、本州西端の歴史の町・下関であった。
 高杉晋作の「奇兵隊」の根拠地である。
 広宣流布という新・民衆革命の発進地として、これほどふさわしい場所はないと、私は思っていた。
 「おれは/前進する光りの波のなか/おれの腕が/武者ぶるいする」とは、トルコの大詩人ヒクメットの叫びであった。
 この山口闘争には――
 仙台、蒲田、築地、向島、本郷、小岩、文京、足立、中野、杉並、城東、志木、大宮、鶴見、浜松、名古屋、大阪、船場、梅田、松島、堺、京都、岡山、高知、福岡、八女と、多くの支部から派遣員が参加してくださった。
 それぞれ縁故を頼りに、山口県下へ走ったのである。
 派遣員は、わが旧知のメンバーもいれば、今回、初めて一緒に戦う友もいた。
 安楽な生活の人などいなかった。皆、大変な生活のなか、必死に旅費を工面し、勇んで馳せ参じてくれた尊き義勇兵だった。
 この大事な法戦に参加した全同志を、一人も残らず勝利させてみせる!
 私は、第一回の訪問では、十月十八日まで、下関市、防府市、山口市、岩国市、柳井市、徳山市(現在は合併して周南市)、宇部市を走り、勇み立って、戦いの指揮をした。
 折伏の最前線で悪戦苦闘する派遣員たち。
 そして、まだ信心の日浅き地元の方々の狼狽。
 さらに、多くの悩みを抱えた新来の友の姿――。
 私は決断していた。
 断じて山口県を蘇生させてみせる!
 歴史に残る、広宣流布の人脈を作ってみせる!と。
 会って、語る。
 会って、悩みを聞く。
 会って、励ます。
 会って、指導する。
 会って、共に祈り、御書を拝する。
 直接会えなくとも、手紙等で、会ったと同じだけの誠実を尽くし切っていく。
 私は、喜び勇んで、体当たりで毎日毎日を走りながら、飛びながら、勝利のために、建設のために、乱舞していった。
 そして、「縁した方々を、皆、偉大な広宣流布の大闘士に育成していくのだ!」
 と、歓喜踊躍して、苦しみを楽しみに変えながらの人生を、自分の身で創っていった。
 御書には「日蓮は此の法門を申し候へば他人にはに(似)ず多くの人に見て……」(一四一八ページ)と仰せである。
 この意味は、"他の人と比較にならないくらい、大勢の人に会ってきた"との御聖訓である。
 わが学会員も、大聖人の御心と同じでなくてはならぬ。
 まさに「会う」ことが折伏なのである。
 生命と生命のぶつかり合う勝負なのだ。

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