Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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勇敢なる信仰 広宣流布の正義の大城を守り抜け!

2005.8.1 随筆 人間世紀の光3(池田大作全集第137巻)

前後
1  古代ローマの詩人ホラティウスは歌った。
 「非常の時には勇猛で果敢な所を見せるがいい。しかし、同時に賢明に順風によって膨らんだ帆は引き締めるべきだろう」(「歌集〈カルミラ〉第二巻」鈴木一郎訳、『ホラティウス全集』所収、玉川大学出版部)
 その通りだ。
 「勝って兜の緒を締めよ」である。
 わが創価学会が、大波に荒波を重ねるような、ありとあらゆる大難の怒濤を、悠然と乗り越え、断固と勝ち越えてきたのは、なぜか。
 さまざまな次元で論じられると思うけれども、今一度、確認しておきたいことは、いかなる法戦にも、いかなる広宣流布の闘争にも、わが学会は、いつもいつも「異体同心」で、厳然と戦い抜いてきたからだ。
 御聖訓通りに「異体同心」であったから、すべてに勝ち誇ってきたのだ。いかに陰険で卑劣な大迫害にも、わが広宣城は微動だにもせず、壊されなかった。
 人生の戦いの真髄である「異体同心」であったからこそ、わが偉大なる学会は、一年ごとに、世界に隆々たる輝きを増しながら、正義の大城とそびえ立ったのだ。
 日蓮大聖人は、日興上人を中心として熱原方面で弘教が拡大し、次第に迫害の嵐が近づくなかで、重要な御指南をされた。後世永遠に弟子一同が拝するべき、勝利の方程式であった。
 「異体同心なれば万事を成し同体異心なれば諸事叶う事なし」と。
 私たちは知っている。
 それは、「異体同心」で妙法を唱え、心を合わせて広宣流布に進んでいくところに、一切の法戦を勝ち抜くことができるのだと。
 私の師である戸田先生の講義では、この御文に入ると、厳しく鋭く、「異体同心の心」とは「信行の心」であると、私たちの胸を射る如く、繰り返し指導してくださった。
 ちっぽけな、そして卑しい、我慢偏執の心を打ち破れ!
 そして広宣流布への大願に立った「信行の心」を一致させていくことが、成仏の根本であり、勝利の根本であると結論なされた。
 そこにこそ、人間にとって最も強く、人生にとって最も清浄な「常勝の団結」が生まれるのだ。そして「自他ともの成仏」の血脈が滔々と流れ通うのであると、御聖訓に明確に説かれている。
 ともあれ、異体同心の信心とは、結論して言うならば、自己の境涯の拡大につながり、「人間革命」の根幹なのである。
 「異体同心」、すなわち「信心の団結」を破り、自分勝手な行動をする者は、御聖訓に照らして、仏法の方程式から外れた人間であり、絶対に幸福もなければ、勝利もない。いな、堕地獄が待っているに違いない。
2  大聖人は、異体同心の麗しき正義の連帯を広げゆく戦いのなかに、必ずや広布の実現があることを断言なされておられる。
 「若し然らば広宣流布の大願も叶うべき者か
 この世に創価学会が出現して七十五周年――妙法を唱える地涌の菩薩の連帯は、今や世界百九十カ国・地域へと、壮大に広がった。
 この実証は、偶然などでは絶対にない。
 創価の師弟が、蓮祖の仰せ通りに「異体同心の信心」で戦い抜いたから、未曾有の広宣流布ができたのである。
 仏法史上、どれほど学会が意義深き存在か!
 学会は、仏意仏勅の「人類救済の組織」である。恩師が「戸田の命よりも大事な学会の組織」と言われた意義が、よくわかるであろう。
 ゆえに、この偉大な人間の結合をば、断じて守り抜いていかなければならない。
 御聖訓には、「日蓮が弟子の中に異体異心の者之有れば例せば城者として城を破るが如し」と仰せである。
 それは、師子身中の虫である。敵なのだ! 敵を見抜いて戦い、追放することだ!
 戸田先生は言われた。
 「敵は内部だ!」
 信心の世界で自己の栄達のみをもくろみ、卑劣な行為をしていく者をば、断じて許すな!
 和合僧から追放せよ! これは、私の遺言だ――と言われた。
 さらに重ねて、戸田先生は鋭く厳しく叫ばれた。
 「広宣流布を忘れた『異心』の奴らを絶対に許すな!」
 それは、広布の深い使命をもった純真な同志たちの「信行の心」を惑わせ、苦しめること自体、「仏に成る血脈」をかき乱す、破和合僧の大悪行であるからだ。
 「外道・悪人は如来の正法を破りがたし仏弟子等・必ず仏法を破るべし師子身中の虫の師子を食」と喝破された通りである。
 学会は師子王である。
 あまりにも学会が偉大であるがゆえに、これまでも、要領よく泳いで寄生した輩や、学会の大恩を忘れて反逆していった愚劣な元大幹部、元政治家等々が出たことは、皆様方がご存じの通りだ。
 学会を利用し、役職や立場を利用し、下劣な私利私欲を貪るような魂胆の連中に、清浄な和合僧を汚させては絶対にならない。
 「忘恩の師子身中の虫は、叩き出せ!」とは、戸田先生の厳命であった。
 学会は、永遠に、正義の和合僧として勝つのだ!
3  法華経には、「如我等無異(我が如く等しくして異なること無からしめん)」(法華経一三〇ページ)云々とある。仏(師匠)が衆生(弟子)を自分と等しき大境涯に高めることが仏の願いである。この心に応えて、弟子たちが立ち上がるドラマが展開されていくのである。
 師と弟子が不二になる――「師弟不二」こそ、法華経の精神を具現した尊き姿だ。
 そして、異体同心の究極もまた、「師弟不二」であるのだ。
 これまでも、何度も語ってきたが、戸田先生の事業が窮地に陥った時、私は、人間の暗い業ともいうべき忘恩の姿を、嫌というほど眼前に見た。
 昨日まで、殊勝げに「戸田先生、戸田先生」と言っていた人間が、罵声を浴びせて去っていった。
 そこにあるのは、我が身かわいさの保身であり、師弟の世界は微塵もなかった。
 卑怯な心、卑劣な生命が、毒を撒き散らしながら、残っているだけであった。
 だが、私は、退転者が出れば出るほど、学会を非難中傷する者が多ければ多いほど、深い使命と深い決意と崇高なる信心の炎を光り輝かせ、強く燃やし始めた。
 周囲がどうあれ、御本尊の前で決意していた。
 ――私は一人、人生の師をお守りするのだ!
 いかなる苦難があろうとも、いかなる法難があろうとも、いかなる障魔があろうとも、私が戦い抜いて、師をお守りするのだ!
 これが、美しくも強い不二の師弟であった。
 私たち師弟は勝った。あの悪戦苦闘の怒濤を突き抜け、戸田先生と私は、新しき太陽が燦々と輝く、勝利の朝を迎えることができたのだ。
 戸田先生が、私たち青年に読むようにと言われた、ビクトル・ユゴーの『九十三年』の一節に、こうある。
 「わたしの考えは、いつも前進するということです」
 「つねに、夜明けのほうを、開花のほうを、誕生のほうを見ようではありませんか。落ちるものはのぼるものを勇気づけます。老木のたおれる音は、新しい木に呼びかける音なのです」(『九十三年』下、榊原晃訳、潮出版社)
 この言葉は、今もって私の脳裏から離れない。

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