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日蓮大聖人・池田大作

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学会は言論の王者  

2005.6.6 随筆 人間世紀の光2(池田大作全集第136巻)

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1  破折精神こそ正義を守る根本
 ロシアの文豪トルストイは「読書」の心得を記すなかで、古代ローマの哲学者セネカの訓戒を引いている。
 「もしも有益な何かをそこ(注=読書)から引きだしたいと思ったら、疑いもなく価値のある作家の著作だけに親しむべきである」「異論なく良書と認められたものだけを読むがよい」(『文読む月日』上、北御門二郎訳、筑摩書房)
 有益な良書を読め! 有害な悪書は斥けよ! これは、古今東西の賢人たちの共通した鉄則である。トルストイも、こう鋭く喝破した。
 「言葉は人を殺す事が出来るのみならず、死より一層ひどい害悪を与える事さえ出来るのである」(『人生の道』下、原久一郎訳、岩波文庫)
 彼は、人間は弾が装填された銃を慎重に扱うのに、なぜ言葉も同様に扱わないのかと嘆いている。全くその通りである。邪悪な意図のこもった言葉は、恐ろしき銃弾よりも危険だからである。嘘、デマ、狂言、中傷。嫉妬と悪意に満ちた言葉が、どれだけ正義の人間を標的にして、乱射されてきたことか!
 「言葉なくしては思想はない」(『トルストイ全集』18、中村融訳、河出書房新社)とは、トルストイが信念とした哲学である。だからこそ、思想を堕落させる言葉の腐敗を、許してはならないのだ。
 末法は「闘諍言訟」の時代である。争いが絶えず、思想が乱れ、善悪が混乱する。善と悪の言葉が入り乱れ、社会が乱れに乱れるのだ。ゆえに、正義を打ち立てるためには、言論闘争に徹するしかない。強く、強く、声高らかに、徹して真実を語り抜いた人こそが、勝つのだ。広宣流布は、「正義の師子吼」によって、野干(狐の類)の「邪悪な妄言」を打ち砕く攻防戦だ。御書には「師子の声には一切の獣・声を失ふ」と仰せである。
2  蓮祖大聖人の御生涯は、「闘諍言訟」の時代に、断固として勝利する道を教えてくださっている。大聖人とその門下は、狂気を帯びた悪口、そして嫉妬の讒言の集中砲火を浴びた。悪人どもは、事実無根の女性問題まで捏造し、御本仏を「犯僧」呼ばわりまでした。
 また、いわく――「あの教団は、世を乱す反逆者集団である」「ものものしく人を集め、人心を不安にさせている」「どうやら武器も集め始めたらしい」「鎌倉の市中に火をつけたのは、あいつらだ」
 根も葉もない嘘の数々――しかし大聖人は、土壇場の逆境を、正義を宣揚する好機に転じていかれた。門下の富木常忍が信仰上の問題で同僚から訴訟を起こされた時も、書状で励まされた。
 「一生のうちで、これほどの幸いは、またとないであろう」(御書一七八ページ、通解)
 攻撃された時こそ、まさに、正邪の勝負を決しゆくチャンスではないか。一つ言われたら、十を言い返せ!相手が十を言ってきたら、百を言い返すのだ! 卑劣なデマや嘘に対しては、痛烈に打ち返せ! この破折精神こそ、正義を守る根本である。
 冤罪で苦境に立たされた四条金吾のため、大聖人は喝破して言われた。
 「妬む人間の作りごとだ」(御書一一五七ページ、趣意)
 毅然とした態度で、いかなる嘘にも惑わされるな! 必ず正義は勝ち、最後に恥をかくのは嘘つきな連中だ! 厳然と、「真実」の言論を突きつけてやれ!
 「(これを)人ごとに・みるならば彼等がはぢあらわるべし
 デマや讒言をまき散らす輩に対しては――「最後は、そちらが恥をかくよ! 世間から笑われるよ!」と言い切るのだ。今日においても、学会への事実無根の中傷記事が、最後は司法にも断罪され、世間の笑いものになっていることは、皆様もご存じの通りである。
 大聖人が、敵の嘘を暴かれる論鋒は容赦なかった。「誰が」「どこで」「何をしたのか」、その「証拠」を出せ! 確かな「証人」を出せ! 嘘は必ず露見する。だから追撃し抜くことだ。
 ともあれ、真実ほど強いものはない。最後は必ず勝つ。大聖人を流罪した幕府も、「禍なかりけるを人のざんげん讒言と知りて許ししなり」とある通り、讒言ゆえの冤罪と知って、全く潔白であられた大聖人を赦免したのである。日興上人らへの御指南の一節には、「断じて恐れてはならない。いよいよ強く進んでいくならば、必ず正邪が明らかになる」(御書一四五五ページ、通解)と記されている。
 日蓮仏法は、悪や嘘に対しては、どこまでも攻めて攻めて攻め抜いて、「闘諍言訟」の時代を断固として勝ち進んでいくのだ。
3  人を踏みにじる言論など、「言論の自由」を標榜できる立場にはない。書いた内容に伴う責任を果たしてこそ、言論は「自由」の名を冠する資格がある。そもそも、嘘でごまかそうとする心根は、その人間を腐らせてしまうものだ。また、文章で嘘を一言でも書くなら、生活と人生にも嘘をつくようになる。身近な人間をも嘘でごまかし、最後は自分にも嘘をつく。実に哀れな末路である。
 世界の正視眼は、一部の俗悪週刊誌の本質を見抜いている。モスクワ大学助教授のストリジャック先生は、一九九〇年七月に行われた、私とゴルバチョフ元ソ連大統領との会談について、一部週刊誌の記事に激怒しておられた。すなわち、大金を投じて会見を実現したなどとの記事は、「会談に関わった者への冒涜」だと言われるのである。
 氏は具体的に、この会談に尽力してくださった知日家の名前を、一人ひとり、あげられている(肩書は当時)。国民教育国家委員会のヤゴジン議長(ソ連高等中等専門教育大臣)。モスクワ大学のログノフ総長、トローピン副総長。ノーボスチ通信社のドナエフ論説委員。大統領会議メンバーで作家のアイトマートフ氏。ファーリン党国際部長……。
 この方たちには、両国の友好のため、元大統領と私が会わねばならないという共通の信念があった。そこに金銭などが介入する余地は、全くなかった――ストリジャック先生は、こう断言されているのである。私にとって、どなたも懐かしいロシアの古い友人である。このほかにも、無数の日ロ友好を願う方々に支えられて、会談は実を結んだのだ。
 もとより、私一人への誹謗など、歯牙にもかけていない。しかし、ことは、ロシアの友人たちの名誉に関わる問題である。友情のため、信義のため、後世のため、黙っているわけにはいかない。歴史に、真実を刻み留める責務があるからだ。
 また、当のゴルバチョフ元大統領ご本人も、フランスのメディアの取材を受けた際、私と学会への中傷について、「全く根も葉もないこと」と、痛烈に批判されていた。
 ともあれ、「悪口罵詈」(法華経四一八ページ)「猶多怨嫉」(法華経三六三ページ)等の経文の通り、学会ほど、偏見と悪意に満ちた中傷記事を書かれてきた団体もない。選挙がらみの荒唐無稽な記事。ありもしないスキャンダルの捏造。悪いイメージを刷り込むための虚偽の見出し。
 モンテーニュは『随想録』で述べている。
 「偉大で崇高なものを判断するには、それと同じ心が要る。そうでないとわれわれ自身の中にある欠陥をそれに付与してしまう」(『エセー』1、原二郎訳、岩波文庫)
 船の櫂が水の中で曲がって見えると彼がいうように、心の卑しい人間の目には、まっすぐな物も歪んで映る。金銭欲や名誉欲に目がくらんだ人間には、清浄な学会までも欲望にまみれて見えるのだ。学会への低俗な記事は、書く側の内面の卑しさの表れにすぎない。
 御聖訓にも、「自らの誤りを顧みずに、偉大な正義の存在を嫉妬する人間は、自分が目眩をしているにもかかわらず、大山が回っていると思うようなものである」(御書一四五三ページ、趣意)と仰せである。

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