Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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正義の師・戸田先生  

2005.5.11 随筆 人間世紀の光2(池田大作全集第136巻)

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1  悪と戦え! そこに「師弟」の神髄が
 我らの「五月三日」を、全世界の同志と共に、喜び勇んで祝賀した。輝きわたる太陽に照らされながら、この創立七十五周年の「五月三日」は晴れ晴れと飾られた。
 広宣流布の前進の七十五年の歳月には、険しい難所が幾つもあった。行く手を遮る暗雲も、多々あった。我ら正義の前進を攪乱しゆく卑怯者も(幾人か出た。そのなかには、我々の力で議員にまでなりながら、恩を仇で返すような人間たちまで出た。
 その連中が、永遠永劫に地獄の苦しみを受け、三世の十方の仏菩薩、諸天善神から許されることなく、苦海の底に沈み、悔やんでいくことは、御書に厳然と仰せである。
 彼らは、畜生の心と変わってしまった。地獄の使いと変わった。正義を誹謗する悪魔と変わった。「哀れな、情けない奴らだ! そんな卑怯な人間は、永久に同志から追放すべきだ! いてもらうだけで、汚らわしいからだ」と、多くの幹部が語ってきた。
 しかし我らは、すべての戦いに、誉れ高く勝ち切った。あらゆる困難を悠然と乗り越え、勝ち越えて、七十五周年の栄光燦たる大道を、朗らかに歩み切った。そして、未曾有の連戦連勝で、この我らの「五月三日」を飾ることができた。
 全国の同志の皆様、本当にありがとう! 本当におめでとう! さあ、次の五十年へ、再びスクラムを組み直し、歩調を合わせながら、堂々と出発してゆくのだ!
 我らの正義の登攀は、これからも永遠に、勝利の歴史を創りながら、続いていく。
 ともあれ、広宣流布の遠征は、邪悪な仏敵どもとの戦いにつぐ戦いである。その方程しき、式は永遠である。三類の強敵も、仏説の通りだ。三障四魔の天子魔の如き悪魔の人間も、仏説の通りだ。とともに、日蓮大聖人の時代の五老僧と同じく、幹部の退転、恩知らずの狂気じみた批判・中傷も、御書の通りである。戸田先生は、よくおっしゃった。
 「こんな奴らのことで、恐れるな!」と。
 必ず仏天が、その反逆者を痛めつけ、後世に極悪の烙印を残してくれるからだ。
 必ず勝つことが信心だ。戦わないところは、必ず衰える。戦えば戦うほど強くなるのが人生だ。必ず勝っていけるのが、仏法だ。
2  仏意仏勅の学会を私利私欲のために利用したり、大恩ある学会を裏切る。そうした輩の末路は、一人も残らず、実に惨めである。戸田先生を罵り、後脚で砂をかけるように学会を去った元幹部が、ある時、別人のように面変わりして現れた。生気を失い、全く人が変わった悪相に皆が驚いた。ある友は、幽鬼の相であると、唾棄するように言っていた。
 「よく見ておきなさい。反逆者は、不思議と、その堕地獄の姿を最後に見せにくるものなのだ」
 恩師の厳然とした、あの声が、今もって、私たち真の弟子の生命から離れない。
 御聖訓にも、仏敵は厳しく断罪されている。和合僧の教団を破壊せんとした提婆達多は、生きながらに地獄へ堕ちていった。
 「仏を憎み、怨をなして三逆罪に及んだ提婆達多は、五尺の人身のまま、大地が割れて地獄に堕ちた」(御書一〇四一ページ、趣意)
 学会に弓を引いた人間たちが、割れた大地の底に沈むような苦悶を味わっていることは、皆様方もご存じの通りだ。あまりにも寂しく、無残な敗北の人生の終末だ。その心は、孤独と病と死の恐怖に、びくびくと震えている。
 また、今は現罰がないように見えたとしても、御書にはこう仰せだ。
 「順次生じゅんじしょうに必ず地獄に堕つべき」と。御書は、正しく、厳しい。次の世に生まれてきた時に、必ず地獄に堕ちるのである、と。仏法の法理は、まことに峻厳である。
 詩聖ダンテは、大叙事詩『神曲』の地獄篇で、生前に犯した罪に応じて、いかなる裁きがなされるか、入魂の筆で見事に描いている。その『神曲』で、地獄の最下層で断罪されているのは、すべて忘恩の裏切り者であった。ここで氷漬けにされ、無間の「責め苦」を受けゆく忘恩の徒が、苦しみ悶えながら声を発している。
 「俺がやったように、裏切りを働くと、
 肉体はすぐさま悪魔の手に取られてしまう。
 それからは命数が尽きるまで
 悪魔が肉体を支配する」(『神曲』平川裕弘訳、『世界文学全集』2所収、河出書房新社)というのだ。
 「報恩」こそ、人間を人間たらしめている美質である。「恩」を忘れることは、人間を忘れることに等しい。つまり畜生だ。人間の尊厳を歌う詩人は、人間性の否定を断じて許さなかった。ゆえにダンテは、あふれる詩心で、忘恩の裏切り者を断じ、地獄の底で、怒りを込め、唾を吐きながら、氷に封じ込めていったのであろう。
 わが正義の学会も、絶対に裏切り者を許してはならない。いかなる幹部であろうとも、議員であろうとも! これこそ、真の人間の道であり、宇宙の大法則たる仏法の道であるからだ。ともあれ、忘恩の輩と戦ってこそ、人間の尊厳の勝利の実像があることを、絶対に忘れまい。
3  戸田先生は、肩書や役職を鼻にかけ、庶民に威張りちらす幹部や議員に、それはそれは厳しかった。
 「今は、民主主義の時代である。民衆が主人なのだ。いかなる権威の人間も、民衆に仕えるためにある。それを逆さまにするな!」
 おかしくなるのは、いつでも上の方からである。大聖人、日興上人の御在世当時も、蓮祖に仕えていた五老僧の信心が狂っていった。牧口先生の時代も、最高幹部が権力に迎合し、退転した。戸田先生の時代も、最高幹部の一人であった理事長をはじめ、何人もの退転者が出た。
 恩師の膝下で訓練を受けながら、卑しくも反逆した、卑劣な連中の最後は、皆、惨めである。その退転の本質は、臆病であった。増上慢であった。嫉妬の心であった。利己主義であった。誓いの精神が腐ったのである。保身と利害に走ったのである。
 恩師は常々、こう語られていた。
 「覚えておきなさい。私がいなくなったら、マスコミや社会から圧迫を受け、『私は学会員だ』と名乗れないような臆病者も現れるよ」
 ご指摘の通りであった。最大の誉れの学会員でありながら、学会と関係ないような顔で世間を泳ぐ人間が必ず出てくるのである。幹部や社会的立場のあるほど、ずる賢く、もろくなりやすいものだ。特に、議員にしてもらいながら、増上慢と不知恩の裏切り者となっていった連中を見ると、「ああ! これが畜生の心か。よくわかった」と言い切る同志も多い。
 戸田先生も、よく言われていた。
 「一番、信用できるのは、無名の庶民である。健気な会員である。創価の婦人部のように、女性の方が、いざという時、腹が座っている。勇気があって、恐れがない。この方たちを見よ! 模範にすべきだ。この勇気ある姿を忘れてはならない。常に鑑としていくべきだ。この真の勇者に最敬礼をすべきだ!」
 わが恩師の怒りの叱咤であった。また、戸田先生は、こうも言われた。
 「幹部になればなるほど、最前線の会員の方々に学び、戦うのだ。上の方が、自分は動かないで、号令ばかりかけていたら、澱んでいくのは当然である。あまりにも、会員がかわいそうだ。ずる賢い幹部は、絶対にいい気にさせてはならない」
 戸田先生の指導は、厳格であった。ある時は、幹部を解任。ある時は、学会を除名。ある時は、厳しく叱り飛ばして、会合には出させなかった。特に、反逆者に対しては、弟子たちに、「一生、あのずる賢い、畜生の如き恩知らずを許すな! 叩き破るまで戦え!」と、常に厳しかった。激しい指導であられた。
 インド独立の英雄ガンジーは、「魂の力を証明するには反撃の力がなくてはならない」(ヴェド・メータ『ガンディーと使徒たち』植村昌夫訳、新評論)と訴えている。その通りだ。
 日蓮大聖人を尊敬してやまなかった、日本の思想家・内村鑑三は、こう語った。
 「真の信仰は活動のすべての方面において活気と新勢力とを加えます」
 「最も徹底的の社会改良は信仰の復興によって起こります」(『内村鑑三著作集』8所収、岩波書店)
 ともあれ、仏法は実践である。行動である。学会活動に動けば動くほど、心が軽くなる。体も丈夫になる。生命の濁りが消えていく。鋼のように強い人間になれるのだ。リーダーの行動が変われば、学会は、まだまだ強くなる。今の十倍の力が出る。万代にわたって盤石な学会を築く今こそ、幹部は会員第一に徹し、率先して広布に走りゆくことだ! それは、全部、自分自身のためであるからだ。

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