Nichiren・Ikeda
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日蓮大聖人・池田大作
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野に咲く花のように
2005.3.5 随筆 人間世紀の光2(池田大作全集第136巻)
前後
1
創価の母の頭に幸福の花の冠を
ある朝のことである。どこかで聴いたように懐かしく、それでいて初めて聴くように新鮮な響きの歌を、妻が口ずさんでいた。
♪野に咲く花のように
風に吹かれて
野に咲く花のように
人をさわやかにして……
「それは、何の歌だい?」
私は尋ねた。
「あら、有名な歌ですよ」
「ダ・カーポ」という美しいハーモニーのご夫妻が歌われている「野に咲く花のように」(作詞・杉山政美、作曲・小林亜星)であった。妻は、微笑みを浮かべて、続きを歌ってくれた。
♪野に咲く花のように
雨にうたれて
野に咲く花のように
人をなごやかにして……
「いい歌だね。いじらしい庶民の心が歌われているね」
私の胸には、様々な連想が広がっていった。
2
「野に咲く花」――歌詞では、具体的な花の名前はあげられていない。それが、またいいのだろう。母子草、春蘭、スミレ、菜の花、百合、秋桜……。人それぞれに、また住む土地それぞれに、「野に咲く花」の多彩なイメージがある。
北国の野山は、いまだ深雪に覆われている。その雪がようやくとけ出し、山麓にフキノトウや福寿草が顔をのぞかせると、「ああ春が来た!」と心躍らせる友も多い。越前スイセンは、日本海の荒波に臨む急斜面にも根を張り、烈風を耐え抜いて、開花の時を待つ。「原爆で数十年は草木も生えない」といわれた広島、長崎の焦土に、いち早く花を咲かせて、人びとを勇気づけたのは來竹桃である。
誰でも、自分の心の中に、雨にも負けず、風にも負けず、たくましく朗らかに咲く「野の花」をもっているのではないだろうか。人が見ていようが、見ていまいが、「野の花」は、根を下ろしたその場所で、茎を伸ばし、葉を広げ、自分らしく可憐な花をつける。「よくぞ、こんな所で」と感心するような、目立たぬ路傍に咲いている花もある。
こうした花々に、私は幾たびとなく、カメラを向けてきた。その人知れぬ努力に、そっと拍手を送る思いで、シャッターを切るのであった。
3
「野に咲く花――まるで、婦人部の歌だね」
私が言うと、妻は深く頷いて、こう話してくれた。
「ええ、目黒区の婦人部の方が、お手紙で教えてくださったんですよ」
聞けば、その女性は、わが関西創価学園の誉れある第一期生ではないか。彼女は、病気のお子さんを抱え、懸命に頑張ってきた。祈って祈って、戦って戦って、ほっと息つく暇もない日々のなかで、この歌を知り、口ずさんできたのだという。
♪……時にはつらい人生も
雨のちくもりでまた晴れる
そんな時こそ野の花の
けなげな心を知るのです
「けなげな心」とは、「勇気」といえようか。人生は、一つ一つが戦いである。途中に何があろうと、必ず、幸福の花を咲かせゆく戦いだ。
日本中、世界中、あの地でも、この国でも、健気に奮闘されている婦人部、女子部の尊き勝利の栄冠を、妻は、いつも目を潤ませて讃えながら、私に語り聞かせてくれる。
以前、関西の兵庫で、少年時代に読んだ一詩を紹介したことがある。
踏まれても
踏まれても
なお咲く
タンポポの笑顔かな
ここには、いかに苦しき日にあっても、なお明るい笑顔を忘れず、たくましく生き抜く庶民の姿がある。
タンポポは、なぜ、踏まれても、踏まれても、負けないのだろうか。強さの秘密は、地中深くに伸ばした根っこだ。長いものだと、なんと地下一メートル以上にもなるという。
人間も同じであろう。悪戦苦闘を耐え抜き、自身の人生の根っこを、何ものにも揺るがぬ深さまで張った人が、まことの勝利者だ。
「おお、勝利はうつくしい花です」
文豪シラーが、あのジャンヌ・ダルクを描いた『オルレアンの乙女』(野島正城訳、『世界文学大系』18所収、筑摩書房)の一節である。
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