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日蓮大聖人・池田大作

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東欧・ロシアに芽吹く妙法の種  

2005.2.18 随筆 人間世紀の光2(池田大作全集第136巻)

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1  SGI三十年 尊き地涌の友が乱舞
 私が青春時代に読んだ本は、なぜかトルストイが多かった。たまたま、戸田先生から、「今日は、トルストイの何を読んでいるのか」と、車中で聞かれた時は嬉しかった。
 その時、お答えしたのが、トルストイの『読書の輪』であった。確か『一日一善』という題で翻訳されていたと記憶する。先生は、笑顔で頷いてくださった。
 師というものは、なんと深く、なんと優しく、なんと偉大であり、なんと永遠であるものか! 私は、幸福者だ! 厳然と、人生の師がいたからだ。人生の師から、人生を教訓されたからだ。ゆえに、私は断じて負けない。
 そのトルストイの『読書の輪』の一節に、こう記されていた。
 「人間にとって、一生を賭するに足るただ一つの事業がある」「その事業とは人々に対して愛をもって接することであり、人々がお互いの間に打ち立てた障壁を破り去ることである」(『一日一善』上、原久一郎訳、岩波書店)
 この大文豪の言葉通り、私は戸田先生の弟子として、世界中を駆け巡ってきた。
 今やSGIは発足から三十周年。この間、仏法の人間主義の運動は、世界百九十の国々と地域に大きく広がった。
 高等部の代表が、「先生、百九十カ国の大発展、おめでとうございます。万歳!」と叫んでくれた。先日の戸田先生生誕の日のことである。
 それは、ありとあらゆる壁を打ち破りながら、民衆と民衆を、心と心を結んできた、偉大なる軌跡である。なかでも、三十年前には、全くメンバーがいなかった地域――ことに当時は共産圏だったロシア・東ヨーロッパ諸国にも、今や多くのメンバーが大活躍する時代に至った。去る一月、南仏トレッツで開催された「欧州広布サミット」でも、各国のリーダーが感嘆の声をあげていたのが、これら旧ソ連・東欧諸国の目覚ましい発展ぶりであった。
 幾つかの尊き喜びの報告を伺い、私も涙が出るほど嬉しかった。
2  私が、東欧に第一歩を印したのは、もう四十年も前の一九六四年(昭和三十九年)の十月である。アジア、欧州を回るなか、チェコスロバキア(当時)の首都プラハに立った。
 私は、世界広布の決意を、一生の信念として固く抱いていた。しかし当時は、学会の幹部まで嘲笑っていた。いわんや、多くのマスコミも知識階層も、皆、笑っていたようである。
 初めての共産圏。正直に言って、雰囲気は、決して明るいものではなかった。しかし、社会体制が異なっても、住むのは同じ人間である。心を開いて語り合えば、必ず共感が生まれてくるはずだ。それが、私の行動の信条であったのだ。世界広布の歴史を残す、私の深い決意の断行であったのである。私は、行く先々で、市民と触れ合い、語りあった。
 プラハのホテルのロビーで、東京五輪の映像に見入っていた人びと。バーツラフ広場で出会った、あの凛々しき青年」――彼らの笑顔は、今でも忘れることができない。
 翌日は、ハンガリーの首都ブダペストへ飛んだ。八年前(一九五六年)の「ハンガリー動乱」で、多くの民衆が犠牲となった国である。
 戸田先生は、この″動乱″に胸を痛められ、聖教新聞で涙を絞って叫ばれた。
 「一日も早く、地上からかかる悲惨事のないような世界をつくりたいと念願するだけである。民主主義にもせよ、共産主義にもせよ、相争うために考えられたものではないと吾人(=私)は断言する」(一九五七年一月一日付)
 まさに、″人間を引き裂く争いの壁を破れ″とは、わが師の悲願であった。いな、仏法者としては、当然のことである。
 だから私は、小雨の降るなか、東西冷戦の象徴たる″ベルリンの壁″にも行った。壁が造られてニカ月後の一九六一年十月のことである。冷たき壁を前に、一緒に来ておられた友人や関係者の方々の前で、私は語った。
 「この壮大にして強固な壁は、三十年後には、なくなっているだろう」
 いつしか雨は上がり、荘厳な夕焼け空が広がり、ベルリンのブランデンブルク門も金色に光り、美しかった。その晩、将来、必ず壁が破られる日が来ることを祝い、ジュースで皆と乾杯したことこも忘れられない。
 チェコ、ハンガリーと、東欧を旅するなかで、一段と私の決意は深まっていった。――平和を願う人間と人間の心は、体制の壁も飛び越えて、必ず結び合う時が来る。そのために、私は真剣に「種」を蒔くのだ。
 皆が軽蔑しようが、皆が嘲笑おうが、皆がいかなる非難中傷の言葉を飛ばそうが、ただ私は種を蒔くという行動をとりゆくことを断行した。種を蒔かなければ、永遠に発芽はない。平和と友情のために、粘り強く、私は種を蒔くことを実行したのだ。
 初の東欧訪問から十年後の一九七四年の九月、東西冷戦の氷壁はいまだ厚かったが、最初の「時」が来た。その後のロシア・東欧との文化・教育・平和交流の原点となった、忘れ得ぬソ連初訪問である。この前後には、中国も訪問している。
 そして、この訪ソ・訪中の実現後に、SGIは大きな使命を誇りながら、発足したのである。「人間主義の平和の橋」を、絶対に全世界に架けねばならないからだ。すべては人間で決まる。だから、善なる人間と人間の結びつきを、私たちは断固と広げ抜くのである。
 これ以後も、幾たびとなく訪ソ・訪ロを重ね、旧ソ連・東欧諸国との間に、崩れざる「友情の橋」を架けてきたことは、ご承知の通りだ。
3  チェコの哲人政治家マサリクは語っている。「宗教は信頼と希望であり、希望は宗教の本質だからである」(カレル・チャペック『マサリクとの対話』石川達夫訳、成文社)
 私の胸も、この通りであった。
 歳月は巡り一九八九年――あの″ベルリンの壁″が崩れ去った。私が壁の前に立ってから二十八年後のことだ。そして、堰を切ったかのように、「東欧革命」と呼ばれる民主化の波が広がった。
 そのなかで、長らく宗教が抑圧されてきたこの地域でも、信教の自由が保障され、妙法の種が一つ、また一つと芽吹いていったのである。人間主義の鼓動が高まる一九九二年の一月、チェコスロバキアとポーランドに、旧東欧で最初の支部が誕生した。
 私の初訪ソから二十周年の年には、ロシアでも、SGI組織が本格的に出発した。
 さらに旧ユーゴスラビアの解体後、内戦に苦しんだバルカン半島の国々でも、地涌の友は立ち上がり、セルビアにも支部が生まれた。
 そして、歴史に残る第一回「東欧総会」が行われたのは、二〇〇一年の春であった。この席上、スロベニア、ハンガリー、ブルガリアにも支部が結成された。
 昨年、セルビア・モンテネグロでは「ベオグラード平和総会」を開催。周辺の十七カ国のメンバーが集い、平和の建設へ、大前進を誓いあっためである。
 この大発展のカギは何か? それは、徹して「一人」を大切にしてきたことだ。一人ひとりが「人間革命」をしていったからである。
 「ひとりひとりの個人の運命を改善することなくしては、よりよき社会の建設は不可能」(『自伝』木村彰一訳、『世界ノンフィクション全集』8所収、筑摩書房)とは、ポーランドの生んだ大科学者・キュリー夫人の有名な洞察であった。
 かつて全体主義の抑圧のもとで、「一人」が軽んじられ、人間の心が置き去りにされてきた苦渋が長く続いた。だからこそ、「皆、宝塔」「皆、仏」と説いている、最極の人間尊敬の仏法が輝いていくのは、当然な法則だ。誰もが、その人でなければ果たせぬ使命がある。誰もが、この世で幸福と勝利を勝ち取る権利があるからだ。
 あまりにも厳しい社会情勢のなかにあって、わがSGIの同志は、常に明るく、常に前進していった。その姿こそ、「苦難に負けるな!」と、祖国を励ます希望の太陽となっていったことは間違いないのだ。

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