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日蓮大聖人・池田大作

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「大震災十年に祈る」  

2005.1.18 随筆 人間世紀の光2(池田大作全集第136巻)

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1  人間の勇気は何ものにも不屈
 「勇気ある人々の財産は破壊しえても、勇気そのものは破壊できない」(山口三夫・篠原義近訳、潮出版社)
 これは、自然と人間の壮絶な戦いを描いた、フランスの革命詩人ビクトル・ユゴーの有名な小説である『海に働く人びと』の一節だ。
 生きゆく勇気! これこそ、ありとあらゆる苦難にもかかわらず、人間が厳然と存在する根源の力だ。宝だ。
 この一月十七日で、忘れることのできぬ「阪神・淡路大震災」から、十年の歳月を重ねた。
 私は仏法者として、今も毎日、すべての犠牲者のご冥福を懇ろに追善させていただいている。多くの方々が夢と希望を破壊された、切ない悲しみのこの日を、あまりにも重い一日として、私たちは受け止めている。
 思えば、昨年の十月に、新潟中越地震の深刻な被災、そしてまた年末に、スマトラ島沖大地震と大津波の惨禍が打ち続くなかで、この十年の節目を、私たちは迎えた。
 豪雪に耐えながら、復興の春を待つ新潟の方々に、心からのお見舞いを申し上げたい。インド洋沿岸地域の甚大な犠牲者のご冥福を祈り、被災者の方々の救援の進展を、心より願わずにいられない。現地SGIとしても、学会本部としても、関係各国に支援を進めている。
 日蓮大聖人は「一身の安堵を思わば先ず四表の静謐を祷らん者か」と仰せられ、その御生涯を「立正安国」の実現に捧げられた。
 常に安穏で、人びとの空気を明るくして、心地よい一日一日を送り、美しく澄んでいる水の流れとともに平和に生き抜いていきたいものだ。これが、誰もが抱く悲願である。
 この「平和」と「安穏」と「幸福」の社会こそ、大王の軍勢に守られきった如く、安心に満ちた、危険を侵す必要のない賢人たちの社会だ。
2  昨年十一月、兵庫県・神戸市の推計人口は、九年十カ月ぶりに震災の直前よりも増えてきたと伺った。
 わが同志のスクラムも、青年部を先頭に、一段と目覚ましい拡大を成し遂げている。世帯の数も、震災前を超え、さらに水かさを増している。交通網の拡充もあり、兵庫から、大阪の枚方市の関西創価小学校へ、また交野市の関西創価学園へ、通学する凛々しき学園生たちも、いやまして多くなっている。
 この復興のために、貢献を続けた、不死鳥の如き人間の力、庶民の振る舞い!
 復興に尽くしてこられた、尊き方々のお名前は、子孫末代まで、偉大な庶民の象徴として輝き残されていくであろう。その賢明な振る舞い自体が、亡くなった方々への更なる回向となるのだ。
 断固と立ち上がった、強い兵庫を見よ! 言語に絶する逆境に打ち勝った、庶民の力強き勝者に、諸天善神は拍手を送る。今や、わが神戸は、不滅の希望の灯台として光っている。
3  一九九五年(平成七年)の一月十七日火曜日、午前五時四十六分ーー。震度七の激震が兵庫県の南部を襲い、甚大な被害は、兵庫を中心に大阪など他府県にも及んだ。
 死者・行方不明者、六千四百三十六人。負傷者、四万三千七百九十二人。そして、家屋の全壊・半壊二十四万九千百八十棟。歓喜のご一家が、一瞬にして、地獄の苦しみに変わった。
 これほどの凶暴な破壊があるものかと、私たち夫婦は衝撃を受けた。
 その朝、私と妻は自宅の一室で、いつもの通り雑談しながら、勤行の用意をしていた。そこに、関西からの第一報が入ったのである。ただちに、神戸、兵庫の、そして関西の同志のことを思った。
 私は、環太平洋地域を代表する学術機関「東西センター」からの招聘で、海外へ出発する日が迫っていた。すでに派遣の先発隊は、現地で準備を進めている。
 しかし、私は即座に、出発の日の延期を決定した。「ただちに兵庫の方々の激励をすべきだ。最大の救援の手を打つべきだ」と。
 私たちは、最愛の大事な関西の同志のために、なすべきことは、なんでもしなくてはならぬと、天に向かって決意した。真剣に、妻と二人で朝の勤行を始めた。天は輝いているけれども、悲哀は深く強く離れなかった。
 海外への出発を、これ以上、変更できない講演のギリギリ直前まで延期した私は、被災地域の支援を全力で指揮していった。そしてまた、海外での行事を終えると、すぐに、愛する関西に直行したのである。
 わが勇気の同志たちは、被災の現場で決然と立ち上がった。自ら被災され、怪我を負いながら、人びとの励ましに奔走した友も数知れない。学会の九つの会館では、被災者を受け入れ、近隣の友のために尽くし抜いた。究極の心の力である「勇気」を、被災地・阪神と淡路の皆様方は、厳然と発揮し、いち早く奮闘していかれたのだ。
 それに呼応して、全国の同志たちも、すぐさま支援の行動を開始した。
 地震が起きてから初動段階(一月十七日から二十二日)で、二十二万本の飲料水(ペットボトル)、十一万本のお茶(ペットボトル)、六十五万個のおにぎり、五十万個のパンが用意された。また、缶詰三十一万個、携帯用カイロ三十五万個、毛布七万五千枚、卓上用コンロ三万五千個、紙おむつ四万人分、粉ミルク五千五百缶、医療品二万五千箱等々も準備された。
 それらを、ヘリコプター延べ四機、トラック延べ千二百二十台、チャーター船延べ三十隻、バイク延べ九百台等で迅速に届けた。
 さらに、七百人に及ぶ医療班の派遣、義援金の贈呈、また子供たちの教育の復興のために、教育委員会への学用品贈呈、学校への図書贈呈なども実施していった。
 膨大な物資の「量」も、生活に細やかに配慮した「質」も、鉄道・道路が壊れ、ライフラインも破壊された街の奥の奥まで物資を届ける迅速な「行動」も、みな被災者の方々の必要に即応するために生まれた。
 組織があったから動いたのではない。苦しんでいる方々の痛みを共にし、行動せずにはいられぬ「同苦の心」が、同志の胸に燃えていたからこそ、真心のネットワークがフル回転で働いたのだ。大苦難の中の魂が、人間共和の光源となって、目覚めていったのである。

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