Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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「女性の世紀」の若き旭日(中)  

2004.11.12 随筆 人間世紀の光2(池田大作全集第136巻)

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1  永遠の「幸福の宮殿」を開け
  青春の
    スクラム楽しや
      女子部かな
 人から貰ったような幸福は、いつか逃げ去るものだ。しかし、自分でつくる幸福は決して欺かない――フランスの哲学者アランの、この『幸福論』の洞察は有名である。(串田孫一・中村雄二郎訳、白水社、参照)
 幸福は与えられるものではない。まして、他人が決めるものではない。
 大聖人は仰せである。
 「さいわいは心よりいでて我をかざる
 幸福は、自分自身の「心」から生まれる。だからこそ、わが心に、燦然と輝く哲学の明鏡を持つことだ。三世永遠の高次元に立つ、仏法の深遠なる生命論では、「欲楽」と「法楽」とを明確に立て分けている。
 つまり「欲楽」とは、さまざまな欲望を充足していく快楽の範疇である。それは、どんなに満たされようと、際限もないし、その喜びは永続しない。かえって、人間を後ろ向きにさせて、不幸の因となる場合が多い。これに対して「法楽」とは、常に、前を向き、前に進み、正しき「法」とともに、幸福になっていくのだ。
 釈尊も、そして日蓮大聖人も、正しき「法」に生きゆく「歓喜の中の大歓喜」を、自らの生命に受け切っていくことが幸福なのであると、結論されておられる。
 御聖訓に「法華経は一切経の頂上の法なり」と説かれている如く、妙法蓮華経が大宇宙の究極の法則だ。法が無限であるがゆえに、その幸福も無限である。法が永遠であるがゆえに、その幸福も永遠である。法が絶対であるがゆえに、その幸福もまた絶対である。
 戸田先生が、「相対的な幸福」ではなく「絶対的な幸福」を打ち立てよ、と教えられた意義も、ここにある。人と横目で見比べ合うような、ちっぽけな幸福ではない。何かあれば、すぐ壊れてしまうような脆い幸福でもない。
 「御義口伝」には、「南無妙法蓮華経と唱え奉るは自身の宮殿に入るなり」との法門が明かされている。私たちの生命の中に、崩れざる幸福の宮殿があるのだ。その大宮殿の扉を、自分自身の手で開きゆくのである。そして、生きていること、それ自体が楽しいという大境涯を築きながら、人びとに希望の光を贈り、社会に平和の波動を広げゆくのだ。
 古代ギリシャの教育者イソクラテスは叫んだ。
 「人間の生は悪徳によって滅び、徳によって保持される」(『イソクラテス弁論集』1、小池澄夫訳、京都大学学術出版会)
 さらに、古代ギリシャの詩人テオグニスは、「人が自身の持物として、智慧分別に、優るものはない」(『世界名詩集大成』1、呉茂一訳、平凡社)と教えた。
 人間として最も尊貴な「智慧」と「福徳」の道を、わが女子部は、世界の無数の乙女たちに示しているのだ。この若き「幸福博士」の大連帯は、百六十七万人を趣えて、今や百七十万人へと拡大を続けている。
 フランスの文豪ロマン・ロランは、若人に語った。
 「勇気を失ってはいけません。あなたの精神が強ければ(私はそうだと確信しています)、いかなる障害も、いかなる遅延も、精神を鍛えてくれるだけだとお考えになることです」(『ルイ・ジレ=ロマン・ロラン往復書簡』清水茂訳、『ロマン・ロラン全集』32所収、みすず書房)
 真の同志や友人からの意見や注意は、聞くことが大切である。しかし、悪意を持った人間の悪口や陰口など、絶対に気にしてはならない。損をするだけだ。人は、口のある動物だから、感情的な人も、知性的な人も、嫉妬の悪口を言いたがるものだ。気に病んだりするのは、愚かなことだ。仏法では「嫉妬かさなれば毒蛇となる」と達観している。
2  先日(二〇〇四年十一月四日)、私は、シルクロードの天地・キルギス共和国から、名門オシ国立大学のムルズブライモフ総長ご夫妻をお迎えした。意義深き名誉教授の称号を、お持ちくださったのである。
 キルギスでは、指導者にあるまじき「恥の中の大恥」として「嘘」があげられてきた。また十一世紀のキルギスの大詩人バラサグンは、「人格を台なしにする悪徳」の筆頭として、「中傷好きな舌」をあげている。これは、洋の東西を問わぬ人間社会の大原則である。
 「嘘をつくということは、そのことそれ自身が悪の絶対の形である」「嘘は、悪魔の容貌である」(『レ・ミゼラブル』宮原晃一郎訳、『ユーゴー全集』1所収、ユーゴー全集刊行会)とは、フランスの大文豪ユゴーの憤怒の叫びだ。
 そうした悪辣な嘘に騙されたり、卑劣な中傷に屈すれば、幸福には絶対になれない。だからこそキルギスの民話の聡明な乙女は教えている――「嘘」が人の耳に注がれても、自分の目で見破れば騙されない。「真実」を見抜く、確かな目を持て! と。賢く正しき女性の眼力と舌鋒ほど、強いものはないのだ。
 「宗教改革の父」とも言われるオランダの人文主義者エラスムスも、教養深き女性が、堕落し切った傲慢な坊主を痛烈にやりこめ、笑い飛ばす対話を描き残している。放蕩に耽る貪欲な坊主に、その女性は言い放った。
 「知恵とは、人間にとって精神の富以外に幸福はないということ、財産も名誉も血統も人間をより幸福にも、よりりっぱにもできないということを、悟ることだと思います」(『対話集』二宮敬訳、『世界の名著』17所収、中央公論社)
 この無名の賢女が語った言葉は、私の胸から離れない。ともあれ、わが「精神の富」と「生命の宝」に目覚めた女性には、何も恐れるものはない。幸福と勝利の女性だからだ。
3  無慈悲な、残酷な悪世だ。若い女性を狙った凶悪事件も、あとを絶たない。「人間の世界というより、まったく野獣の世界じゃないですか!」と、ある母が泣きながら激怒していた。
 だからこそ、聡明に、細心の注意で行動することだ。大聖人も、「民の心・虎のごとし・犬のごとし」という世情にあって、門下を護り抜くため、繰り返し戒めておられた。また、特に夜間の注意は厳重である。
 「よるは用心きびしく」――夜は用心を厳しくしなさい――
 「かへらむには第一・心にふかき・えうじん用心あるべし、ここをば・かならず・かたきの・うかがうところな」――帰る時には、一層、心に深く用心しなさい。この(帰宅の)機会を、必ず敵は狙うからである――と。
 弟子の夜の安全、無事故の帰宅のために、御本仏がこれほどまでに心を砕いておられたのである。
 ゆえに、大切な大切なわが女子部は――
 (1)夜遅くならないように、早めに帰宅する。
 (2)人通りの少ない道は避ける。一人で暗い夜道を歩かない。防犯ベル等を携帯する。
 (3)家族に心配をかけぬよう電話で帰宅時間を知らせる。
 こうした基本を、今一度、真剣に確認しておきたい。「さきざきよりも百千万億倍・御用心あるべし」との御金言を、わが事として拝していくことだ。絶対に、悪を近づけない。断じて、魔を寄せつけない。その毅然とした強さと智慧をもたねばならない。

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