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日蓮大聖人・池田大作

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「女性の世紀」の若き旭日(上)  

2004.11.11 随筆 人間世紀の光2(池田大作全集第136巻)

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1  賢明なる幸福と勝利の女子部たれ
 名作『大地』や『母』で知られるアメリカの女性作家、パール・バックは叫んだ。
 「女性が自信をもてば、勢力の旋風となり、強さの泉となる」(『若き女性のための人生論』石垣綾子訳、『世界の人生論』11所収、角川書店)
 あらゆる時代を通して、この有名な言葉は真実であり、大切なことである。
 時代と社会での闘争は、永遠に休止することはない。常に激しく渦を巻きながら、変化に変化を重ねている。多くの人が敗北者になっていく、その変化のなかにあって、賢く勝ち放いていける人は、宝の価値を我が手につかんだ人だ。
 誰が愚者であるのか、誰が賢者であるのか、誰が善人で、誰が悪人なのか、それらもわからぬ動乱複雑の日々にあって、正しく勝利を勝ち取ることは大変難しい。今までは勝ち誇っていた人間も、また、繁栄していた団体・会社も、油断と傲慢から大波に呑まれ、あの驕り高ぶった姿は、みすぼらしい姿になってしまった。これが現実である。これが社会である。
 これらの大きい原因は、ある著名な先輩が語っている。
 「さまざまな要因はあるにせよ、その本質は、狡猾と慢心の心を振り切ることができなかった連中である。勝利への、そして新しい意見を聞かずに、常に独善と古い勢力に心をとらわれて、いつしか時代遅れとなり、人は離れ、敗北の大波に呑まれていく人も多い」と。
 古代ギリシャのヘシオドスという詩人は指摘した。
 「愚か者は痛い目に遭ってはじめて悟る」(小川正廣『ウェルギリウス研究』京都大学学術出版会)
 人生は厳しい。時代の流れを知らぬ人は、苦心惨憺して築き上げた勝利の旗を、吹き飛ばされるからだ。その複雑極まる絶望が、いつも虎の爪の如く待っている世界にあって、現実の光景を厳しく正しく見つめながら、病的な盲信を捨て去り、新しい命の建設が始まっている。
 朗らかに、忍耐強く、あらゆる限界を突き抜けた、超・能力の感情を持ちながら、自信と活力と希望に満ちた女性の新しき勢力は、生き生きと台頭し始めてきたのだ。まさしく「女性の世紀」の到来だ。
 新しい女性は、毎日、力強く、前進する。古い女性は、後ろを振り返って、希望もなく新鮮な魂の輝きがない。新しい女性は、常に使命感を持っている。常に、自身が社会の建設のために、何かを貢献しようと努力している。その魂は、生き生きとして光っている。古き女性は、虚栄と小さな目標だけを追いかけ、自分の殻の中に閉じこもり、大いなる希望も喜びも幸福も、味わうことはできない――。これは、ある哲学者の言ったことだ。
 そのみずみずしき勢力の「旋風」となって、ひときわ清新な光を広げゆく若き太陽こそ、わが創価の女子部の青春スクラムである。
2   生涯の
    幸福 築けや
      今日の貴女きみ
 女子部は、全員が幸福に! そのために、今日も健康で! 今日も絶対に無事故であれ!
 これが、牧口先生、戸田先生の時代から、創価学会の厳然たる伝統の精神であり、私と妻の真剣なる祈りである。
 一家においても、娘が健やかで、明るい笑顔で成長していれば、これほどの喜びはない。学会においても、常に女子部がはつらつと広宣流布に舞いゆく晴れ姿こそが、何よりも我らの「異体同心」の希望であり、正義の光、幸福の風、そして信心と勝利の泉なのだ。
 「賢明さと幸福とは非常に接近している」(『政治経済論』阪上孝訳、『ルソー全集』5所収、白水社)
 これは、フランスの思想家ルソーの洞察であった。愚かであっては不幸だ。人生の賢明なる幸福の勝利者となっていくのが、女性の目的だ。
 戸田先生は、女子部に指導してくださった。
 「目先のことしか見えない心の近視眼ではいけない。理想ばかり追っている遠視眼でもいけない。現実の複雑な葛藤の渦巻きにとらわれて、悩み苦しむ乱視眼でもいけない。人生は正視眼でなければならない。これを仏法では説いている。その実践である信仰も、それを正当として、心の眼を正しているのだ。ともかく、それを作り上げ、磨き上げるのが、信心を基調とした教学である」
 このたび(二〇〇四年十一月二十一日)の教学試験(青年部三級)にも、女子部は、女子高等部も含め、七万七千人もの友が、生き生きと挑戦していると伺っている。
 「女子部は教学で立て!」と教えられた恩師も、どれほど喜ばれていることか。
3  名門の裕福な家に生まれたから、幸福なのか。大邸宅で、お雛様のように綺麗に着飾りながら、空虚な日々を浪費する人もいる。金銭の魔性ゆえに、堕落したり、事件に巻き込まれる悲劇も、あとを絶たない。美貌に恵まれれば幸福か。答えは、明確に否である。
 学歴によって、また結婚によっても、幸・不幸は決まらない。結婚の年齢が早いから幸福、遅いから不幸ということは絶対にない。そしてまた、結婚しなかったら不幸ということも、断じてありえない。
 紀元前一世紀、エジプトの絶世の美女クレオパトラは、比類なき権力も財宝も手に入れた。しかし、最後は、自らの命を絶たざるを得なかったことは、あまりにも有名な史実である。
 そしてまた、八世紀、中国の楊貴妃も、美しい容姿と才知に恵まれ、時の皇帝の寵愛を一身に受け、中国一の幸福者に映っていた。だが、その末路は人びとの怒号に包まれ、一族もろとも誅殺されてしまっている。
 私は、こうした事実を決して忘れてはならないと強く申し上げておきたい。ともかく、人間には、絶え間ない変化変化があるのだ。若い今、満足と言いながら、あとになって、不満ばかり喚く人もいる。喜びの日々であった人が、いつのまにか、人が変わったように怒り狂い、苦悩の闇を徘徊している。
 「幸福の園」は「不幸の洞窟」と隣り合わせである――とは、著名なベルギーの劇作家メーテルリンクの傑作『青い鳥』の鋭い幸福観である。
 「天人は五衰(五つの衰え)を受く」と、仏法では説かれる。天界の喜びは儚く消え去る。
 見栄は幸福ではない。有名もまた幸福には繋がらない。大スターと呼ばれた人びとの侘びしい人生の結末も、数多く歴史に残っている通りだ。それは、一体、なぜか。
 私の友人であるアメリカ実践哲学協会のマリノフ会長は、「虚名ばかりが大きくなるとき、生命の躍動的な力が消費されて弱まり、人間としての存在そのものが危なっかしく空虚になるのだろう」(『元気哲学』吉田利子訳、アーティストハウスパブリッシャーズ)と述べておられた。
 いつもマスコミやテレビに賑やかに書かれ、華々しく映し出されても、「夢の中の栄え」であり、「幻の楽しみ」に過ぎないのだ。
 ある哲学者が言った。
 「人生は、最終章の数年の実像がどうであったかで、見極めることができる。最後の数年が、生きざまの総決算である。その人生の総決算の実体を見なくてはいけない」
 私の恩師・戸田先生も、かつて同じことを論じておられた。
 若き哲学者の貴女たちよ、虚像の幸福に幻惑されるな!
 「常楽我浄」の生命の大道を、焦らずに、また自分らしく、一歩また一歩、進みゆくのだ。
 そして誇りも高く、断固と最後に勝ちゆくのだ!

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