Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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大聖人門下の第一条件  

2004.10.29 随筆 人間世紀の光2(池田大作全集第136巻)

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1  真実の幸福は『勇気』の中に!
 イギリスの詩人であり、世界的に有名なシェークスピアの言葉を、私は忘れることはできない。著名な劇作家でもあった彼は、戯曲『ヘンリー六世』のなかで、乙女ジャンヌ・ダルクにこう語らせている。
 「卑しい感情のなかでも恐れはもっとも呪わしいもの」(小田島雄志訳、『シェイクスピア全集』7所収、白水社)
 つまり、勇気を持つ人生であれ! 正義と幸福のために、勇敢であれ! 臆病者になるな! 臆病者は呪わしいものだ――という意義である。
 大聖人の御書を拝すれば、人生の根本的な勝利は「信心」にある。そして、その信心の根本は「勇気」であるということを、叫びに叫んでおられる。
 今回は、その大聖人の御書を拝し、また先人の箴言に学びながら、そのまま我々の心肝に染め、また皆様方の信心の原動力にしていただきたいのである。
  信心の
    強きを仏と
      言うなれば
    偉大な同志よ
      いや増し 勇気を
 「日蓮が弟子等は臆病にては叶うべからず」と、大聖人は繰り返し仰せになられた。臆病者は、日蓮の弟子に非ず。「勇気」こそ、大聖人門下の第一条件なり、との峻厳な叱咤である。正義ある人は勇気あり。勇気ある人は人格あり。これは、古今東西の賢人の一致した洞察である。
 過日(二〇〇四年十月十六日)、中国の孔子の故郷から、名門・曲阜師範大学の先生方を、創価大学へお迎えした。孔子文化大学とも謳われる同大学から、光栄にも名誉教授の称号をお持ちくださったのである。そして、孔子の思想と人生を有意義に語り合った。
 「義を見て為ざるは、勇なきなり」とは、よく知られる『論語』の一節だ。正義を知りながら、それを実行しないのは、勇気がないのである。臆病者なのだと、孔子も厳しく結論している。
 十七世紀、フランスの哲学者デカルトは綴った。
 「『臆病』は、意志を有益な行動からしりごみさせるゆえに、きわめて有害なのである」(『方法序説・情念論』野田又夫訳、中央公論社)
 その通りだ。どんな高尚な哲学であっても、それを実践する勇気がなければ、ただの観念で終わってしまう。
 「剣なども、前進しない臆病な者には、何の役にも立たない。法華経の剣は、信心の勇敢なる人が用いてこそ役に立つ。それでこそ、鬼に金棒なのである」(同一一二四ページ、通解)
 これは、幼い病気の娘・経王御前を抱えた、四条金吾夫妻への励ましの御文である。
 人生は誰人たりとも、生老病死の苦悩との戦いである。悩みがないことが幸福ではない。どんな悩みにも負けないことが、幸福なのである。
 自分だけの幸福ではない。人を幸福にできる人が、本当の幸福者なのである。牧口先生は、折伏の対話のなかで言われた。
 「幸福な生活への脱皮には、勇気が必要である」
 真の幸福は、勇気の中にある。勇気こそ「幸福の門」だ。
2  はつらつと
   今日も生きなむ
     そのために
   わが道 確かと
     勇気抱けや
 「佐渡御書」には、高らかに宣言されている。
 「心は法華経を信ずる故に梵天帝釈をも猶恐しと思はず
 妙法という「正義の中の正義」の大法則を持った人生には、何も恐れるものはない。相手が、いかなる権力者であれ、いかなる有名人であれ、いかなる富豪であれ、生命の尊貴な位において、何も臆することはないのだ。
 仏の威徳の一つに「無所畏」がある。衆生の幸福のため、大法を説くに際して、何も畏れるものがない。これが、仏の境地である。勇気は、人びとを救いゆく仏の力用に通ずる。ゆえに、戸田先生は、よく教えられた。
 「私たち凡夫が慈悲を出そうとしても、なかなか出るものではない。その慈悲に代わるのは、勇気である」
 勇気を出して、広宣流布の行動へ打って出るとき、結果として、最極の慈悲の行動の歴史が創られていくのだ。とともに、真の勇気があるところ、必ずや無限の智慧が輝いていくものだ。
 「三障四魔と申す障いできたれば賢者はよろこび愚者は退く
 権力と結託した極悪の良観一味の迫害と戦う、池上兄弟への御聖訓である。
 魔を魔と見破る智慧の眼! そして、悪を悪と言い切っていく勇気の声! ここに、最も正しき生命の道がある。
 「勇気は恐怖よりはるかに爽快」(『生きる姿勢について』佐藤佐智子・伊藤ゆり子訳、大和書房)
 こう語ったのは、アメリカの人権の母エレノア・ルーズベルト大統領夫人であった。
3   猛然と
    勇気の剣を
      引っ提げて
    戦え 勝ちゆけ
      今日も 明日も
 あの佐渡流罪の大難のなか、健気に信心を貫き通した一人の母を讃えられた御手紙には、記されている。
 「日蓮一度もしりぞく心なし、しかりと・いえども弟子等・檀那等の中に臆病のもの大体或はをち或は退転の心あり
 人の心は恐ろしい。御本仏の時代にさえ、師匠を裏切り、同志を裏切り、卑怯に逃げ去る者がいた。いかに弁解し、正当化しようとも、退転者の性根は「臆病」なのだ。
 戦時中、学会は、狂暴なる軍部権力から弾圧され、二十一人の幹部が逮捕された。初代・牧口会長、二代・戸田会長を除いて、ことごとく退転である。宗門は権力に迎合し、邪宗門と化した。戸田先生は、慨嘆された。――宗門の慌てぶり、後で聞くもおかしく、見るも恥ずかしき次第であった。牧口、戸田の一門は登山を禁ぜられ、世をあげて国賊の家と罵られたのは、時代とはいえ、滑稽なものである、と。そして、厳しく叱咤された。
 「いくじのない者どもである。勇なく、信が弱く、大聖人を御本仏と知らぬ悲しさである。名誉ある法難にあい、御仏のおめがねにかないながら、名誉ある位置を自覚しない者どもは退転したのである」(『戸田城聖全集』3)
 近年の難においても同じであった。要するに、臆病者は、皆、ふるいにかけられていくのだ。
 熱原の法難の際、門下に送られた「聖人御難事」には、「恐ろしいというならば、鷹にあった雉、猫にあった鼠を他人事と思ってはならない」(御書一一九一ページ、通解)と励まし、戒められている。
 臆病な心に負け、正法正義を捨て去れば、それが因となって、常に自分より強い敵に怯えねばならぬ、哀れな畜生道の境遇に堕ちてしまう。その悲鳴の流転は永劫に果てることがない。だからこそ、勇気を奮い起こして立ち上がれ! そうすれば、未来永遠に何ものをも恐れぬ大境涯を豁然と開いていくことができる。
 打ち続く法難のなか、病との戦いにも屈せず、勇気ある信仰に徹した無名の庶民の夫妻に、大聖人はお約束である。
 「もしも今、霊山にまいられたならば、太陽が昇って、十方の世界を見晴らすように、嬉しく、『早く死んでよかった』と、たいそうお喜びになられることでしょう」(御書一四八〇ページ、通解)
 勇気の道は、「生も歓喜」「死もまた歓喜」という、永遠なる常楽我浄の生命の軌道へ連なっていくのだ。人間界から、悪道の輪廻に転落するか。それとも、「歓喜の中の大歓喜」に包まれた金剛不壊の仏の大生命を、勝ち取っていくことができるか。その永遠の幸福と勝利を決しゆくのが、今世の「勇気ある信心」である。
 それゆえに、大聖人は、「各各我が弟子となのらん人人は一人もをくしをもはるべからず」と、厳命されているのである。

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