Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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君よ青春の無限の力を!  

2004.10.24 随筆 人間世紀の光2(池田大作全集第136巻)

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1  わが弟子の壮大な陣列を仰ぎ見む
 「断じて、この一生を悔いなく勝利して飾れ!」
 これは、戸田先生が、若き最優秀の人材の集う「水滸会」で、最後に言われた言葉である。聡明に振る舞い、聡明なる行動をとる者は、社会の信用と勝利の道を飾るのだ。堪忍の限度を超えた、中傷迫害の輩に対しては、一生涯、戦い続けることだ。断じて許さず、勝利することだ。
 たまには、君たちと気晴らしをしながら、大いなる希望の歌を歌いながら、あの荘重なる誓いを確認し合って、誓約の魂の交歓をしようではないか。
 善人である君よ! 勝利者である君よ! 勝ち誇っていく青春を生き給え! 君よ、来る日も来る日も、聡明に振る舞え! 賢明に戦い、勝ちゆくのだ。
 あの恩知らず、あの裏切り者たち! 彼らは、策士である。陰謀家である。人の苦しみを、せせら笑う畜生の如き連中だ。我らを散々、騙した罪は、永遠に業苦の炎となって、彼自身を焼き苦しめていくことは、間違いない。
 あの卑劣な、煩悶絶叫して苦しみながら倒れる輩たちよ。盗人よりも悪い、卑怯な、正義を破壊せんとする、忘恩の大悪人の末路を、容赦なく見届けるのだ――と、戸田先生は誠に厳しかった。
 若き君よ、正義の堂々たる道から、悲惨な地獄に行くような迷路に入るな! 若き君よ、生きるのだ。生き抜くのだ。意義ある人生を生きていくのだ。己が、勝利と幸福と栄光を、悔いなく歴史として留める人生を歩むことだ。
2  「青年・拡大の年」――これが、学会創立七十五周年となる、輝かしき明二〇〇五年のテーマである。無限の希望の未来を歩みゆく「青年の年」であり、無限の勝利と栄光の大広場で、愉快に語り、舞い、生き抜く、「拡大の年」である。なんと希望にあふれ、力のみなぎるテーマであろうか!
 邪悪に包まれた、この我らの生きゆく世界にあって、青年は、正義の血脈の連帯と、尊き鉄の団結をもって、大勝利の歴史を綴りゆくのだ。我らは、わが無限の青年の力で、未曾有の「創価の威光勢力」を拡大し抜く一年を築き上げていくのだ。
 「未来の果を知らんと欲せば其の現在の因を見よ」と、開目抄に引かれた経文は、我らの明確な指標である。
 我らがめざすのは、創立八十周年の二〇一〇年! さらに、「次の五十年」の栄光である。
 その勝利を決するのは、仏勅を胸にした永遠の勝利の指導者たる、そしてまた、晴れ晴れと天空を愉快に飛び舞いゆく、偉大なる青年の決意であり、一日一日の行動であり、世紀の今の戦いだ!
3  五十年前(一九五四年)の秋、私は、師弟不二である創価の青年部の一幹部として、連日連夜、怒濤のような戦いの渦中で指揮を執った。その思い出は、一生涯、忘れることは断じてできない。
 ことに、この年の十月末から十一月上旬にかけて、三つの大きな学会行事が控えていた。
 その一つは、十月三十一日の「青年部一万人の総登山」であった。次に、十一月三日に開催される、意義深き「本部の総会」である。さらに十一月七日は、創価の広布の躍動と躍進を示しゆく、初めての歴史的な東京・世田谷の日大グラウンドでの「大体育大会」であった。
 日本中の同志が見つめていた。多くのマスコミもまた、学会に注目し始めていた。この大きな一つ一つの山の登攀を、私たちは見事に天下に証明し、厳として永遠の歴史を飾った。
 日本中の目が、新しい学会の実像を、新しい目で見つめ始めた。この年の五月、沛然たる豪雨のなか、男女青年部五千人の本山での結集を大成功裏に終えた直後のことであった。戸田先生が、私に力強く言われた。
 「下半期にもう一度、やろうじゃないか。青年部の実質的な″総会″だ。秋十月に、今度は一万人の大結集で、学会の実力を天下に示してくれないか」
 師の瞳は、輝いていた。師の弟子を思う瞳は、微笑みと同時に涙ぐんでおられた。わずか半年で、倍増の一万人の結集である。多くの幹部連は、唖然として、私の顔を見つめていた。
 戦いには「時」がある。青年部の大躍進のために、今、必要なのは前進また前進だ。今、休んでしまえば、力が衰える。目的が乱れる。向上心が消える。断固として、もう一歩前進して、創価の広布の大地盤を築く時だ。師と若き弟子は、一致した心であった。
 今こそ、青年を鍛える時だ。青年を立派な指導者に育てゆく時である。それには、訓練だ。苦労だ。機敏な行動を教えゆくことだ。多くの人を結合させ、前進させる指導力を、身をもって教えることだ。
 牧口先生とも親交の厚かった新渡戸稲造博士は、「人の力は出せば出す程ふえる」と訴えた(『自警録』講談社)。「十分に力を出す者に限って、おのれに十二分の力があり、十二分の力を出した者がおのれに十五分の力あることがわかってくる」(同前)と。
 これは、有名な話である。私は、全くその通りだと思った。戦いのみが、青年の力を鍛える。
 惰弱な青年が、いくら名門校を出て偉そうに見えても、人間としてそれだけでは負けである。自らの戦いがなければ、人はつかない。自分自身も、魂の自滅である。青年は鍛えねばならない。責任を持たせ、活動の戦野を広げていくことだ。多くの人びとの心を知り、薫発させていく源泉となっていかなければ、力ある境涯はできあがらないからだ。

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