Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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正義の言論は銃剣よりも強し  

2004.10.16 随筆 人間世紀の光2(池田大作全集第136巻)

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1  大文豪ユゴーの戦う魂
 「ユゴーを読め!」
 あの懐かしい戸田先生の声が、今も、私の耳朶から離れない。ヴィクトル・ユゴーは、わが青春時代の、戦い生き抜く力となった大切な書である。
 十代から幾たびも読み返し、今でも胸の奥深く刻まれている『レ・ミゼラブル』。戸田先生の厳命で同志と回し読みした、人間と時代の深遠なる動向を書き上げた、あの『九十三年』――。今でも、私の書棚に光っている。
 ある時は天を仰ぎ、そしてある時は手を合わせながら、わが心を生き生きと躍動させゆく名作には、人間が立ち返るべき、何か深い魂の鼓動が感じとれる。
 ユゴーが生きた十九世紀のフランスは、動乱の打ち続いた時代でもあった。何を信じたらいいのか、多くの人びとが迷っていた。力になるものがない、慚愧の涙が流れる時代であった。正しき政治とは、いったい何か。真実の英雄とは、いったい誰のことを言うのか。輝かしき、あの歴史的なフランス大革命の理想と精神は、いずこへ消えてしまったのか。このまま、未来永劫に人間は嘆き悲しんでいかねばならないのか。
 彼は、苦悩に疲れ果てた人びとの天空に、ペンの力で、北極星の如く動かぬ指標を示したかったのだ。″すべてを、民衆を通してながめよ!そのなかにこそ真理を認めることができるであろう″――彼は、人民から逃げなかった。彼は、宿命から逃げなかった。彼は、革命から逃げなかった。
 そうだ! 彼は一生涯、民衆の魂のなかにこそ、正義があることを知悉していた。そして常に、苦悩と試練を受ける庶民の味方で生き抜くことを決意していた。
 よく知られているように、『レ・ミゼラブル』の題意は「惨めな人びと」ということである。惨めな思いを余儀なくされる人間の側に立つことだ! 人びとを惨めにさせる敵とは断固、戦うことだ! ここに、ユゴーが叫び抜いた正義があった。信念があった。
 この勇敢なる大文豪の叫びは、民衆の平和と幸福を決定させゆく、仏法者の魂と一致している。戦後の荒れ果てた社会を奔走していた、創価の若き我らの宗教革命の魂を、必ずや彼は賞讃したにちがいない。
 社会は暗かった。生活も辛かった。目標も全く光りがなかった。その混迷の時代に、広宣流布のため奮闘した若き私たちの魂に、彼は深い共鳴をしたにちがいない。真剣に、そして正しき社会を建設しようと決意しながら、心の底には、信仰という無限の力を、我らは持っていた。その深き思いに重ね合わせていくような思いで、あの忘れ得ぬ『レ・ミゼラブル』を読んだものだ。
2  十月末から、東京宮士美術館で「ヴィクトル・ユゴーとロマン派展」が開幕する。
 展示品の中に、フランスの国宝に指定されたユゴーの直筆稿があるとも伺っている。
 書かれたのは一八八五年五月十九日」――死の三日前の絶筆である。偉大な詩人であり、作家であったユゴーが、自らの思想を文字で表現した、最後の記録といわれているようだ。
 「愛するとは、行動することである」
 わずか一行に凝縮された、大文豪ユゴーのこの言葉は、私も大好きであった。
 彼は、行動の人である。人間の王者であった。彼には、勲章など真っ平であったにちがいない。名誉なども、塵の如く思っていたことであろう。胸から湧き出ずる、あふれんばかりの民衆愛、人間愛を、ペンに注ぐだけでなく、そのまま行動に移していった英雄である。
 政界への進出があった。死刑廃止運動の激烈なる戦いがあった。ルイ・ナポレオンへの歴史的な抵抗があった。亡命後の言語に絶する言論闘争があった。その愛から発した行動は、いわゆる甘いメロドラマでは絶対になかった。血がほとばしる、斬るか斬られるかの、厳しい攻防戦であった。
 彼の心底の決意は、深かった。彼の胸中は、気高い闘争心に燃えていた。そして彼は、自らの前途が輝く春ではなくして、気高き廃墟になることも覚悟していた。その決定した心には、清例な滝が流れていた。
 民衆を思うゆえに、彼は、民衆を裏切った者は断じて許さなかった。それまで支持していたルイ・ナポレオンが独裁者の素顔をのぞかせると、攻撃の急先鋒となったのである。
 当然、敵も多かった。僧まれもした。″大事業を成した人間、新しい思想を打ち立てた人間ならば、誰でも敵はいるものです″とは、有名なユゴーの言葉である。
 「光り輝くもののまわりには必ず、雑音を放つ黒雲が群がるものです」(稲垣直樹編訳『私の見聞録』潮出版社)
 彼が友人を励ました、この言葉は、自らの体験に基づく大確信であった。
3  仏法の魂も、ただ実践の二字である。青年たちが調べてくれたが、御書の中には、「法華経の行者」という表現が、実に三百三十カ所を超えて、使われている。いわゆる「信者」でも、「学者」でもない。この「行者」とい、二字に、日蓮仏法の炎の魂があることを断じて忘れまい。
 法華経は、行じる経典である。実践の法門である。「行」の中に「信」と「学」の昇華があるからだ。日蓮仏法は、いわゆる観念観法では断じてない。行動しないことは、反仏法なのだ。真実の信仰ではない。
 御義口伝には、「妙法蓮華経」の五字を人間の体に即して説かれている。「経」とは「足」にあたる。いわば広布のために行動してこそ、真の妙法の実践となるのだ。学会活動は、動けば動くほど、身も軽くなる。心も晴れやかになる。功徳もある。仏になれる。
 ともあれ、永遠の大勝利者となりゆくのだ。足を使い、五体を使って、生き生きと行動するなかに、わが身を妙法蓮華経の当体と輝かせていけるのだ。これが御聖訓である。

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