Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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七月十一日 師弟の記念日  

2004.6.30 随筆 人間世紀の光1(池田大作全集第135巻)

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1  「巌窟王」の恩師と共に
 「友よ、私の魂は、私が次のように言えるから、喜びを感ずるのである」
 「真理は勝利を得、敵は撃滅された」(『学園講演集』四本忠俊訳、『ペスタロッチ全集』3所収、玉川大学出版部)
 スイスのペスタロッチのこの言葉を、私は青春時代から、胸に秘めてきた。
2  私は、書く時も、戦う時も、そして思索する時も、友や妻と語る時も、必ず、恩師である戸田先生の生命が離れない。常に一体感を感じゆく数十年であった。この実感は今日も、そして死ぬ瞬間まで続くであろう。あの喜びの姿、決意の姿、戦いゆく絶叫の師子吼の姿、深い祈りをなしゆく勤行の厳粛な姿……。三百六十五日、一瞬たりとも、私の生命から恩師は離れない。
 この随筆を書こうとした時、何を書こうかと考えた。やはり、戸田先生の言葉が思い起こされる。
 「大作、いよいよ、今度はデュマの『巌窟王』をやろうじゃないか!
 そう言われた戸田先生の、嬉しそうな、それでいて深い決意の確固たる表情は、今でも、私の胸中から、まったく離れることはない。
 それは、五十年前(一九五四年=昭和二十九年)の二月のことである。
 直ちに、男子部の最優秀の人材グループである、私たち「水滸会」は、戸田先生のもとで、フランスの大作家デュマの傑作『モンテ・クリスト伯』(巌窟王)を読んでいった。
 悪人の陰謀でイフ島の牢獄に囚われてしまった青年ダンテスが、十数年後に脱獄し、自分を陥れた悪党に復讐しゆく、波瀾万丈の大活劇である。なかでも、ダンテスが牢獄で神父のファリア師と出会い、生まれ変わっていくドラマは、若々しき我が胸を揺さぶった。
 老いたるファリア師は、自身の生命の残り少ない時間と競争するかのように、自らの人生の総決算の一切を注ぎ込んで、若きダンテスを教育する。師匠は、温かく、そして厳しく、自身の深い秘密を最後に打ち明けていくような決意であった。老いたる師は、全能の電光を放ちゆくが如く、大事な弟子に語った。
 「あなたはわしにとって、価の無いほどの貴い贈り物にちがいなかった」(『モンテ・クリスト伯』山内義雄訳、岩波文庫)厳粛な師弟の完成の瞬間である。
 やがて、ファリア師が死ぬと、最愛の弟子であり、最も完全な力量を具えたダンテスは、その師の遺体と入れ替わって、生きて牢獄を脱出するのだ。
 私は、あの戦時中に獄死なされた牧口先生と、そして、その師匠の仇討ちを固く誓い、生きて獄門を出られた戸田先生の、峻厳なる師弟不二の姿を、尊敬の念深く感じ取った。よし、私も一生涯、戸田先生の弟子として、厳粛なる師弟というものは不二であるということを、身をもって完成させ、大偉業と大功績を残していく――と決意した。
 君よ! 新しく煌々と光り輝きゆく、不滅の彗星となって、はるか広大な空間の中へ、いかなる迷路も横切り、君自身の軌道をば突き進んでいくのだ。
 ともあれ、師の厳然たる叫びに応え、弟子というものは、この「師弟不二」という荘厳なる境涯をもって、生きて、生きて、生き抜くのだ。戦闘、戦闘、また戦闘という、際限のなき正義の労苦をば、深く固く決意していくべきである。
 広宣流布の誉れ高き男子部の結成は、ご存じの通り、昭和二十六年の七月十一日であった。
 彼の目にも、私の目にも、崇高なる法戦を戦いゆく決意の光があった。
 その目に映る戸外は、夕暮れの中に、天から輝きをもって雨が降っていた。
 私たちは、希望と歓喜に燃えて、そして、これから遭遇するであろう大難も、苦痛も、深く決意して、互いに喜び合っていた。
 この日、東京・西神田の、小さな学会本部で、尊き、そして強き使命を胸に、若き地涌の菩薩たちの結成式がなされたのである。
 その時の、戸田先生の第一声は意外であった。
 「今日、ここに集まられた諸君のなかから、必ずや次の創価学会会長が現れるであろう。……その方に、私は深く最敬礼をしてお祝い申し上げたい」
 そして、深々と頭を下げられたのだ。
 何たる率直な、未来を見つめての深き師の胸中の叫びかと、皆が驚いた。
 ともあれ、いずれの時代にあっても、いずれの国にあっても、青年の「熱」と「力」なくして、偉大なる建設は成し得ない。広宣流布は、死をも決意した若き革命児でなければ、絶対に達成でき得ない大偉業である。
 青年が立ち上がれ!
 青年が民衆を救え!
 青年が歴史を変えよ!
 そのために、青年よ、汝の尊き使命に目覚めよ!
 これが恩師の叫びであった。願望であられた。そして、今の私の心である。
 私も、広宣流布の一切を君たち青年部に託す。いな、託す以外にないのだ。二十一世紀の創価学会を、世界の広宣流布を頼む!
 私は、尊き若き地涌の君たちに最敬礼をしながら、尊き後継の信心の宝冠を授けたいのだ。
 不況続きの社会の中で、わが正義の青年部は、厳しい職場で戦っている。そして、仕事で疲れた生命を叱咤し、さらに燃やしながら、広宣流布という人類待望の大偉業に、その先駆として戦いまくり、叫びまくり、走りまくっていく、何と尊き青春の凝結した姿よ!
 必ずや、使命に生きる君たちをば、断固として諸天は護らむ。宇宙に遍満する善神たちは、厳として護ることであろう。それが、日蓮大聖人の仏法の方程式であるからだ。
 フィリピン共和国の「独立の魂の父」ホセ・リサール博士の有名な言葉がある。
 「いったん決意すれば、やり遂げるということを世界に知らしめようではないか!」(カルロス・キリノ『暁よ紅に』駐文館訳・発行)
 これはまた、わが青年部の燃え上がる闘魂である。
 六年前の二月、私は、マニラで、この大英雄の名前を冠した「リサール国際平和賞」を拝受した。荘厳な授賞式には、時のラモス大統領をはじめ、フィリピン各界の来賓が、二千五百人も出席してくださったのである。
3  あの男子部の結成式には、約二百人が集った。席上、四部隊の体制が発表されたが、一部隊は数十人であった。まことにまことに、小人数の陣容から始まった。
 皆が若くして貧しかった。若くして苦しい生活の中で、さらに若くしてあらゆる苦悩を身に受けながら、決然と彼らは立ち上がった。
 この人数で、今日の二百七十三万人の正々堂々たる男子青年部の陣列になるとは、誰が思ったか。そして、女子青年部百六十七万人を合わせ、世界的な青年部四百四十万人になるとは、誰人たりとも、想像しなかったであろう。
 多くの人が、ありとあらゆる非難悪口を浴びせてきた。
 「あの軍隊式の時代遅れの集団など、全滅するだろう」等々、無理解な中傷誹謗は、枚挙にいとまがなかった。
 中国の大革命家・魯迅は言い残した。「苦しみに耐えて進撃する者は前へ進み、すでに革命した広大な土地をあとに残していく」(「滬寧奪回祝賀のかなた」須藤洋一訳、『魯迅全集』10所収、学習研究社)と。
 男子部結成の当時、私は二十三歳。青年部の役職は「班長」であった。
 どこかの皇帝から賜った勲章よりも――まったく社会的な栄誉はない、広宣流布のための「班長」の任命の尊さを、私は誇り高く噛みしめて立ち上がった。そして、戦い抜いた。
 私は死を覚悟して戦った。
 断じて、大師匠の悲願である、創価七十五万世帯の突破口を、必ず開いてみせると!
 この組織の最前線に燃え上がった炎の闘魂が、日本国中の若き地涌の同志に、電波の如く、鋭く深く、波及していったのである。
 人数ではない。役職でもない。
 まず一人だ! まず一人である!
 決意深き一人の青年の胸に、「創価」の誇りが燃えているかどうかだ!
 その不滅の炎が、次の一人、また次の一人へと、燦々と燃え広がり、広宣流布の大波となっていくのだ。

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