Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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広布の北極星と光れ 東京・北区  

2004.6.23 随筆 人間世紀の光1(池田大作全集第135巻)

前後
1  新しき「創価の柱」は立った
 「人は信仰と溌刺とした勇気によってどんなに困難なことにでも打ち勝てる」(エッカーマン『ゲーテとの対話』山下肇訳、岩波文庫)とは、ドイツの文豪ゲーテの洞察であった。
 彼の膨大な関連資料を所蔵する、世界でも有数の「東京ゲーテ記念館」が、北区の西ケ原にある。ゲーテに言及した、私の著作なども納めてくださっているようだ。
 この記念館は、北区に縁の深い一人の実業家が、「万人のためのゲーテ図書館をつくりたい!」との、燃え上がる熱意と不屈の意志で実現したものと伺っている。
 ともあれ、ゲーテは、その全生涯をかけて、″生きている限り、勇敢に事をなせ!″と力強く詠い続けた。
 「きょうできないことは、あすもできない。一日もむだにはすごせない。決心して、敢然と時を逸せず、できそうなことの前髪を引っつかむんです。決心したからには離すことはしない。そこでいやおうなしに仕事ははかどる」(『ファウスト』高橋健二訳、『世界文学全集』6所収、河出書房新社)
2  その日、私を乗せた車は、思い出多き文京区を走り、北区へと急いでいた。
 動坂下から、しばらく上がっていくと、見えた! 田端駅の近く、線路沿いに立つ、懐かしい北文化会館である。
 昨年(二〇〇三年)の十月五日、日曜日の朝だった。
 本部で重要な打ち合わせが待っていた。しかし、三分でも五分でもいい、わが北区の同志が懸命に奮闘する地域まで、私と妻は何としても行きたかったのだ。
 ただ、皆を煩わせぬよう、会館には入らず、車から題目を送り、「勇敢な北区の友に勝利あれ、栄光あれ!」と、強く、強く祈った。
 北区の同志には、何かにつけて、ご苦労をおかけしてきた――そういう申し訳ない思いが、私にはある。
 北区は、しばらく前まで、区内に中心となる大きな会館がなかった。少し大規模な会合となると、地元で開けないのである。だが、北区のいじらしき同志は、意気揚々と、バスや電車を乗り継いで、区外の会館へ足を運んでくれた。
 七〇年代、私が東京各区の友と重ねた記念撮影も、北区はかなり後であった。
 だが、それだけに、一九七五年(昭和五十年)の秋九月十四日、待ちに待った二千人の代表との出会いは、爆発的な歓喜の歴史となったことを、私もよく覚えている。
 この、どちらかといえば、目立たぬ存在だった北区が、昨秋、大東京の命運を決する使命を担って、猛然と立ち上がったのである。
 そして北区は、隣の足立の同志と共に、勝利へ一丸となって、分厚い壁を破った!
 勇気と執念で勝った!
 忍耐と団結で勝った!
 わが北区は、大東京の新しき、偉大な「創価の柱」としてそびえ立ったのだ!
 東京の勢いが、全軍の勢いを決める。東京が決然と壁を打ち破れば、その勇気は、たちまち全体に波動する。
 東京の責務は、あまりにも大きい。いかなる局面であれ、正義の戦闘があるところ、「本陣」は絶対に負けてはならない。
 断固として美事なる勝利の旗を打ち立てねばならない。
 それが、東京の使命であり、宿命なのだ。大東京に、見渡す限りの完勝の旗を、千波万波と翻すのだ!
 その大東京の難攻不落の「北の砦」こそ、わが誉れの北区創価学会なのである。
3  一九七九年(昭和五十四年)の四月、私は第三代会長を辞任した。
 邪悪な提婆の如き反逆者や坊主らは、″学会は終わりだ、こっちの思いのままだ″と、ほくそ笑んだにちがいない。
 しかし、会長であろうが、なかろうが、私は戸田先生の直弟子である。
 師弟の誓願である「広宣流布」の旗は、命ある限り、絶対に降ろさない。
 いつも、師・戸田先生は私に「大作、二人でやろうな!」と言われた。
 二十八歳も年齢差のある、若い私に全幅の信頼を置いてくださっていた。
 我、師と共に戦う!
 我、師と共に勝つ!
 その不二の誓いは、一生涯変わらない。
 「誰が見ようが見まいが、何を言われようが、私は弟子の誠を尽くす。これ以上の誉れがあるものか! ただ一人になっても戦い抜いて、世界へ広宣流布してみせる!」
 あの当時、私は、立川市羽衣町の立川文化会館、横浜市中区の神奈川文化会館、さらに豊島区巣鴨の東京戸田記念講堂などを軸として、嫉妬と中傷の砲弾の雨のなかを、同志の激励を続けていた。
 この間、館内に北文化会館(当時)を併設する戸田記念講堂では、わが北区の同志と、幾度も語り合った。ピアノで″大楠公″等を弾いて、友に贈った日もあった。
 最も苦しい時代に、御書を拝し、師弟を語り、広布を展望しながら、寄せては返す波のように、幾重にも、北区の尊き同志と生命の絆をつくったのである。
 その結実の一つこそ、一九八五年(昭和六十年)の三月に行われた「北平和文化祭」であった。
 これには北区全域――今の本部名でいえば、田端、滝野川、飛鳥山、十条、東十条、赤羽西、赤羽、桐ヶ丘、浮間、豊島、王子、新王子から、四千人が創大体育館に集い、舞いに舞ったのである。
 婦人部や女子部の笑顔も美しかった。学生部、未来部も頑張った。今の″宝寿会″の友のタップも、壮年部の団結も美事だった。そして、男子部の演技も圧巻であった。
 寒風の荒川の土手で、休まず練習を続けてきた労苦の汗が光っていた。
 この時から、「北区ここにあり!」との正義の大行進は、いやまして威光勢力を強めていったのである。

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