Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

大中部に轟く正義の勝鬨  

2004.4.28 随筆 人間世紀の光1(池田大作全集第135巻)

前後
1  青年が立てば堅塁城は不滅
 「生まれつき耐えられぬようなことはだれにも起らない」(『自省録』神谷美恵子訳、岩波文庫)とは、古代ローマの哲人・皇帝マルクス・アウレリウスが語った人生哲学である。
 若き青年の君よ! 何があろうが、断じて屈するな! 断じて負けるな! 前進をあきらめるな!
 法華経に説かれている「能忍」とは、「よく堪え忍ぶ」という意義を持った言葉である仏の別名のことだ。
 つまり、来る日も来る日も、苦難と苦悩に満ち満ちた危険千万である、この娑婆世界にあって、「何ものにも断じて負けない!」という不屈の師子王の生命こそ、仏であるというのだ。
 熱い涙を流し、苦悩の日々を乗り越え、悲しく歌ったあの日を勝利に変えながら、真実の栄光を、真実の幸福を勝ち取った、汝自身の魂の英雄の姿よ!
 これが、偉大なる中部の同志の方々の実像である。
2  それは、一九五九年(昭和三十四年)の秋の出来事であった。
 忘れることができぬ九月二十六日の夕刻――。紀伊半島の潮岬付近に、超大型の台風十五号が上陸したのである。
 各方面に、その恐怖の破壊を続けながら、台風は闇の中を北上していった。有名な伊勢湾台風である。
 この台風の直撃を受けた愛知県、三重県、岐阜県を中心に、全国で五千人以上の死者・行方不明者が出たのであった。
 この悲しき悪夢の如き災禍から、今年で四十五年となる。
 当時の私は、学会でただ一人の総務として、事実上、恩師亡き後の全責任を担っていた。
 あの暴風雨の晩、私は静岡にいた。皆の安否を思うと、夜も眠れなかった。
 いったん、東京に戻り、学会本部で懸命に救援体制を整えると、私は、友の嘆きを我が胸の嘆きとして、中部の大切な同志のもとへ走った。
 名古屋駅で降り、真っ先に″泥の海″のような被災地域に、数人の同志と共に足を運んだ。尊敬する友を護るために、大切な同志を護るために、異体を同心とする家族以上の友を護るために、私は全魂を打ち込んで走り回った。
 さらにまた、半年前にできた愛知会館を救援の本部とし、皆が何でも相談に来られるように開放した。
 ひっきりなしに同志が訪ねて来られた。
 家を失い、家財を流され、疲れ切った顔があった。不安に怯えた顔があった。泥まみれの姿で、中に入るのを躊躇する人もいた。
 「ここは、あなたの″家″です。そのままで結構です。どうぞ上がってください」
 一人ひとりを迎え入れては、消えかかった勇気の灯に再び油を注ぐように、私は全身全霊で励まし抜いた。
 「大悪をこれば大善きたる」と教えられた仏法である。最悪の事態も必ず変毒為薬できる信心である。
 ともかく、一番大変なところ、一番苦しんでいる人のもとへ飛び込め!
 そこで戦いを起こせ!
 これが、真実の仏法であり、学会精神であるからだ。
 それから私は、三重の四日市方面へ行くことを、即刻、決めた。
 大難があった時に、永遠に栄えゆく勝利と福運を開くべき、自分自身の魂を自殺させてはならない。
 「勇気」を与えることだ。
 「生き抜く力」を与えることだ。
 だが、台風の猛威は長良川をまたぐ交通を寸断していた。恐ろしい濁流が轟音を上げて立ちはだかっていた。
 「これでは無理だ」と、呆然と皆がつぶやいていた。
 しかし、私は、あきらめるわけにはいかなかった。
 川の対岸に、同志たちがいるからだ。行けないわけはない!
 我々は、無限の勝利の鎖で、魂と魂が繋がっているのである。
 私は前進した。大変な遠回りであったが、川を渡れない以上、岐阜から関西へ入り、そこから三重に向かうというルートを選んで、苦難と戦っている友のもとへ急いだのであった。
 どんな困難な状況にあっても、解決策は必ずある。救いのない運命というものはない。
 「運命というものは、人をいかなる災難にあわせても、必ず一方の戸口をあけておいて、そこから救いの手を差しのべてくれる」(『新訳・ドン・キホーテ』全篇、牛島信明訳、岩波書店)
 これは、世界的に名高いスペインの作家セルバンテスが『ドン・キホーテ』に綴った一節である。彼の信念がにじみ出ている有名な言葉だ。
 息苦しい陰惨な″不可能の壁″が、いかに頑丈に見えても、鬼神をも動かす厳然たる祈りと、勇敢なる信念の行動があれば、必ずや、永遠の希望に満ち満ちた勝利の突破口を開いていけることは、間違いないのだ。
 私の尊き青春時代、四十五年前の一日一日の行動は、いな、一日一日の戦闘は、この魂をば、中部の大地に留めるためであったといえる。
 そして中部の全天に、勝利の風を巻き起こすための東奔西走であったといってよい。
3  ともあれ、日蓮仏法の「立正安国」の精神から、「人間革命」、そして「民衆の救済」と、さらには「社会革命」へと立ち上がった我が学会は、その前途に苦難の烈風を宿命づけられていくのは当然のことであった。
 特に、学会が支援する公明党が躍進するにつれ、危機感を抱いた政界や宗教界から、数限りない非難・中傷が沸騰していった。
 なかでも中部は、最も辛く苦しい歳月を歩んだ。
 思えば、私の″会長就任十周年″にあたる昭和四十五年ごろも、そうであった。
 当時、学会を狙い撃ちした悪質な中傷本に対する、一部のメンバーの抗議行動が、思いもよらぬ言論・出版妨害事件とされたのである。
 このいわゆる「言論問題」を発端に、学会を反社会的団体として抹殺せんとするが如き、囂々たる批判の嵐が吹き荒れたのだ。
 「言論問題」は国会に持ち出され、愛知選出の某議員などは、全くの憶測と偏見に基づいて学会を罵り、私に対しても不当極まりない「喚問」を要求したのである。
 中部の同志は、信教の自由を脅かす権力の横暴に、激怒した。言われ放題の情けなさに悔し涙した。
 この時、決然と立ち上がったのが、中部の青年リーダーたちであった。
 「こんなことが許されてなるものか! 必ず、必ず正義の勝鬨をあげてみせる!」
 十六人の青年たちが、固く盟約した。
 彼らは祈りに祈りつつ、胸中に不屈という堅塁を固め、「忍辱の鎧」を身にまとって、嵐のなかへ勇んで打って出たのであった。
 彼らは、陰湿な謀略に対して、そして邪悪な暴論に対して、堂々たる正論で反撃を開始していったのであった。多くの同志が誹謗と悪口に苦しめられた。
 しかし、卑劣な狂乱状態の攻撃に対して、栄誉ある尊き大使命に立ち、進んでいく我が学会を厳護せんがために、多くの友が歯を食いしばって、反転攻勢の火蓋を切ってくれたのだ。私は、生涯、忘れることができない、この同志たちの名前を、今でも御宝前の脇に置いている。
 彼は戦った。彼は前進した。彼は勇んで攻撃を開始した。そして誰人も納得できる誠実な対話で、信頼を大きく大きく広げていった。来る日も、来る日も、なかなか決着のつかない戦場で、攻めて攻めて、攻め抜いていった。
 我らの正義と、我らの戦うべき使命を叫びながら!
 法難の至高の喜びを、胸に抱きながら!
 息つく暇もなく、彼らは戦った。いや、戦い抜いた。
 そして、中部は勝った。
 彼ら「中部十六勇士」は勝ったのだ!

1
1