Nichiren・Ikeda
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日蓮大聖人・池田大作
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わが故郷・大田を思う
2004.4.19 随筆 人間世紀の光1(池田大作全集第135巻)
前後
1
広布の大遠征へ決然と出発
かの戦時中、ディーゼル機関を製作していた蒲田の新潟鉄工所で働いている時のことである。
非常に優秀な先輩が、幾つかの箴言をメモで書き贈ってくれた。
その中のロシアの作家チェーホフの言葉が、私は好きである。
″何のために生きるのかを知ること、さもなくば、すべてがむなしい、無意味なものになってしまう″(「三人姉妹」神西清訳、『チェーホフ全集』12所収、中央公論社、参照)
体の弱かった私は、毎日が微熱で辛かった。朗らかな楽しい青春とは言えなかった。
健康になりたかった。自分の抱いている希望の道を歩んでいきたかった。しかし、すべてが許されなかった。
ともあれ、戦後、十九歳の私が広宣流布の闘争を開始した出発点は、わが東京の大田である。
それは一九四七年(昭和二十二年)の八月、大田区内の座談会で、私は戸田城聖先生と出会った。
「偉大な人物というものは、よく三世を洞察し、一切を観照し、大苦悩を経て、大歓喜を味わい、大慈悲を発するものである」(『華蓋集』相浦杲訳、『魯迅全集』4所収、学習研究社)――戸田先生は、この中国の文豪・魯迅の一文を彷彿とさせた。
私は、宗教の好き嫌いを超越して、初めて目にした壮大な魂の光る創価学会に入会した。広宣流布という大宗教革命をしゆく新鮮な大遠征に、この時、身を投じたのである。
2
「大田区」という名前が誕生したのは、この一九四七年の春三月であったと記憶する。
「大森区」と「蒲田区」が合併し、それぞれの「大」と「田」の字をとって、「大田」と命名されたのである。
この大田は、地勢的には、羽田、大森、蒲田、矢口等の多摩川河口と海沿いの地域、また、馬込、雪谷、池上等の多摩丘陵に広がっている。
川あり、海あり、丘陵あり、太古より人が集まる天地であった。有名な大森貝塚は、縄文の後期・晩期(紀元前二〇〇〇年〜前四〇〇年ごろ)の遺跡である。
大田区の面積は、現在、五九・四六平方キロメートル。東京二十三区のなかで、最も大きな区となった。
草創期の創価学会は、ここ大田を、広宣流布の一つの原点とした。
当時は、小さな小さな創価学会であった。
皆から「新興宗教」と軽蔑され、皆から「おかしな信仰に狂っている」と謗られた。四方八方、全部に、中傷批判の風が猛烈に吹いていた。
そのような環境の中で、真言宗であった私の一家の全員も、入信に猛反対であった。
後年、私の結婚のことで、戸田先生が、わざわざ私の父と何回か、お会いしてくださった。
大田区の糀谷にあった、わが家にも来てくださった。この時、私は、車の中で待つように言われた。
父は、戸田先生と長時間、懇談して、「聞くと会うとでは、全く違った方であった。あまりにも確信に満ち満ちた、頭脳明晰な立派な人格の指導者であられた」と讃嘆を惜しまなかった。
「大作は、戸田先生に一切、差し上げます」――これが、わが家での戸田先生と父との深い握手であった。
帰り際、私の本家から、先生と二人で車に乗った時、先生は言われた。
「お父さんは″強情さま″と言われてきたようだが、本当に本当に、いい方だ。
お母さんも、いい方だ。大作、君を一切、私のところへ差し上げると言ってくださった」
ともあれ、若き私は、大田で立ち上がった。戦い抜いた。そして勝ち抜いた。
3
三世まで
勝利の使命の
大田かな
ある年の秋に、親しい弟子に贈った句である。
私と苦楽を共に戦ってくれた多くの法戦の戦友が、大田には健在でおられることが、本当に嬉しい。
信心に、定年はない。
周恩来・鄧穎超ご夫妻も、「命ある限り、闘いを止めず」と、人民に尽くし抜かれた。
「革命からの引退はなし」と、八十四歳の?穎超先生が力強く語られた言葉が、私には、いまだに忘れることができない。
今年(二〇〇三年)も、わが大田の同志が、文化会館の前にある、多摩川の川岸に美事に咲き薫る桜の写真を送ってくださった。
その樹木の勢いには、いささかの衰えも感じられない。来る年も、また来る年も、枝先まで桜色に染め上げる生命力に満ちている。
その王者の桜が、私には、大切な大田の同志の爛漫たる人生と、二重写しに見えるのだ。
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