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日蓮大聖人・池田大作

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師弟正義の目黒  

2004.3.27 随筆 人間世紀の光1(池田大作全集第135巻)

前後
1  躍動の春! 前進の春!
 アメリカの大思想家エマソンは謳った。
 「自然の胸の鼓動に合せてあなたの胸をはずませれば
 東から西へとすべては明らかになる。
 一つ一つの姿にひそむ精神は
 自分と同類の精神にうなずきかける。
 自らの火で燃え輝いた原子はすべて
 自らの手のうちにある未来を暗示する」(『自然について』斎藤光訳、日本教文社)
2  信濃町の学会本部の前の「青年桜」が、今年も勢いよく咲き始めた。
 万物が生の喜びを奔放に謳い上げる、躍動の春の到来である。
 全国のわが大切な創価の同志も、広宣流布の崇高な使命に燃えて、完勝へ、高らかに足取りも軽く前進を開始した。
 私の机上にも、全世界、そして日本の各地から、そうした喜びと決意の書面が続々と届いている。
 嬉しい。本当に、私は嬉しい。読みながら、涙が止まらなかった。
 こんなに素晴らしい同志を持ち、こんなに素晴らしき弟子を持ち、こんなに正義と勇敢な人生を、共々に歩めることに感泣した。
3  広宣流布の本陣は、東京である。広宣流布の出発点も、東京であった。その東京の目黒の天地で、先日、「目黒戸田区」と「目黒池田区」からなる総区体制のもと、隆々たる会合が行われた。それは、意気天を衝く大地区部長・地区婦人部長会であった。
 目黒は、恩師・戸田先生と共に歩んだ、私の青春時代の故郷でもある。
 妻と結婚して最初に住んだのも、目黒区の三田であった。戸田先生も、弟子であり、子どもでもあると思ってくださる私の、目黒の自宅に来てくださった。勤行もしてくださり、さまざまな角度から、人生のあり方と人生の未来について、指導していただいた。この一時も、私と妻の宝の日記となっている。
 戸田先生の御書講義は、池袋の「豊島公会堂」が有名だが、目黒の日出学園の講堂をお借りしたこともあった。
 また、一九七七年(昭和五十二年)四月十五日、私が、″将来、学会創立七十周年を飾ったあと、新たに「第二の七つの鐘」を打ち鳴らしたい″と発表したのも、目黒平和会館(現・目黒国際文化会館)で行われた本部幹部会の席上であった。
 ともあれ、このころから、大仏法に違背した、鬼畜の如き坊主による迫害が始まっていくのである。残忍な坊主の暴虐が荒れ狂った数年間であった。皆が苦しんだ。真実の広宣流布の旗を掲げた同志たちの苦しい、あの顔、この顔。なんと言語に絶する大謗法か。畜生にも劣る、傍若無人の衣を着た言語道断の法盗人たちよ!
 目黒の悪僧らが、公然と、私たちへの中傷、攻撃を強めたのは、昭和五十四年の一月のことである。寺の行事では、週刊誌を振りかざす、低俗な振る舞いをしながら「学会は謗法を犯している」とか、葬儀の席では「学会では成仏できない」とか、あそこでもここでも、狂いに狂った坊主どもの罵声があった。
 これが、仏法なのか!
 これでも、人間なのか!
 わが正義の同志の心中を察するだけで、私の心は張り裂けそうであった。
 「真実の仏法とは、『人間のための宗教』ではないのか!」
 何ものをも恐れぬ師子となって、私は、厳然と一人、この悪僧どもへの反転攻撃を開始していったのである。
 私が目黒平和会館に向かったのは、まさに、その渦中であった。
 それは、昭和五十七年の一月九日の夕刻である。忘れ得ぬ「大雪の秋田指導」に向かう前日であった。私は、苦しく寂しく耐え抜いてきた、この目黒の同志を、心から激励して差し上げたかったのだ。
 私は、懐かしき目黒の友、そして品川の友と、明るく決意ある語らいをした。さらに、自由勤行会を有意義に行った。会館には、私の緊急の訪問を伝え聞いた友が、陸続と目を見張る早さで集まってこられた。その勢い、その強さ、その勇気と真剣さと歓びの姿は、驚くほどであった。目黒の同志は喜んでおられた。そして、厳然と即座に立ち上がったのである。ここから、目黒の勝ち戦は始まった。
 その夜、私が日記に記したのが、この一文だった。
 「僧の悪逆には、皆が血の涙を流す。此の世にあるまじきこと也。多くの苦しんでいった友を思うと、紅涙したたる思いあり。御仏智と信心は必ず証明される」
 この一月の九日を、彼らは「目黒 師弟正義の日」と定めた。そして、破邪顕正の大音声をあげて、勇敢に、また勇敢に、勝利の前進を開始したのである。
 なんと愛しき友か!
 なんと健気な心か!
 常に賑やかな「前進の目黒」であり、堅実な「団結の目黒」である。
 決して「核心」を外さぬ目黒であり、「勝負」の極意を深く知る目黒である。

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