Nichiren・Ikeda
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日蓮大聖人・池田大作
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如説修行の誉れ
2004.3.16 随筆 人間世紀の光1(池田大作全集第135巻)
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1
創価学会は仏意仏勅! 「3・16」の大宣言
猛吹雪
されど厳然
富士の山
それは、一九五八年(昭和三十三年)の三月十六日の日曜日であった。
突然の連絡にもかかわらず、「今こそ、まことの時」と、師である戸田先生のもとに、六千人の青年部の精鋭が、富士の山を見つめて、勇み駆けつけた。
広宣流布の大誓願の旗を、弟子が受け継ぎゆく儀式は、荘厳に始まったのである。
戸田先生は、人生の凱旋の雄叫びの如く宣言された。
「創価学会は宗教界の王者である」と。
それは、何ものにも侵されぬ「思想の王者」であり「哲学の王者」である。さらにまた、社会と世界をリードしゆく「人間の王者」であり「平和の王者」でもある。
そしてまた、すべてを勝ち越えゆく「正義の王者」であり「勝利の王者」なのである。
「
願くは我が弟子等は師子王の子となりて群狐に笑わるる事なかれ
」
あの日、あの時より、後継の我らは、あらゆる大難を恐れず、「王者の証」を打ち立てゆく大遠征を開始したのだ。
2
正しき「人生の道」とは何か。その探求を貫いた文豪トルストイは達観していた。
「敵は常にあるであろう。敵がないように生きることは出来ない。それどころではない、善い生き方をすればするほど敵は多いのだ」(『トルストイ日記抄』除村吉太郎訳、岩波文庫)
事実、彼にも敵は多かった。しかも、ただの敵ではない。彼が正義を叫べば叫ぶほど、民衆に尽くせば尽くすほど、国家権力から敵視され、教会権力から破門までされた。
賢人、聖人と呼ばれた古今の偉人も、不当な非難や迫害を避けられなかった。
御聖訓には「
賢聖は罵詈して試みるなるべし
」と仰せである。
「経の王」たる法華経は、偉大な正義は必ず迫害されることを明確に示している。
「而も 此の経は、如来の現に在(いま)すすら 猶お怨嫉多し。況んや滅度の後をや」(法華経三六二ページ)
――法華経を持つには、仏の在世でさえ怨嫉が多い。いわんや滅後に、さらに怨嫉が激しいのは当然である、と。
ご存じの通り、法華経は、「人は皆、本来、仏である」「すべての人が、かけがえのない永遠なる生命の存在である」と謳い上げている。全く正しい、誰人も賞讃すべき教えではないか。ところが、それを素直に信じられないのが、無明に覆われた凡夫である。この正法をもって正しく行動する人を疑い、妬み、怨んで、かえって敵対するのだ。それは、無理解の悪口にとどまらない。あえて正義を冒涜し、排斥して、抹殺しようとさえする。つまり、″正義が広まっては困る″という邪悪な勢力から競い起こる反動の法則だ。
3
そもそも、仏陀である釈尊その人が、同時代の悪党どもから、どれほど非難・中傷され、弾圧されたことか!
「
釈迦仏は三十二相
そなわ
具
つて身は金色・面は満月のごとし、しかれども或は悪人は
すみ
炭
と
み
見
る・或は悪人は
はい
灰
とみる・或は悪人は
かたき
敵
とみる
」
これが、仏法の定理である。悪人の歪み濁った目には、仏を眼前にしながら、その人格の黄金の輝きが見えない。それどころか、自分を脅かす「敵」と見えるのだ。
仏陀に世の尊敬を奪われ、自分たちへの供養が失われる――嫉妬に狂い焦った外道たちは、釈尊を「閻浮第一の大悪人」と国王等に讒言した。
こうした「猶多怨嫉」の迫害は、反逆の提婆達多が釈尊を殺害しようと大石を落とした事件など、代表的なものでも九度に及んだ。いわゆる「九横の大難」である。
悪党どもは、正々堂々たる言論戦では勝ち目がない。だから、ありもしない社会的事件をでっち上げ、それを足掛かりに正義を蹂躙する。これが、迫害の常套手段だ。「
旃遮女
せんしゃにょ
の
謗
そしり
」「
孫陀利
そんだり
の謗」の如きは、その最たる事例といってよい。
すなわち、バラモンの旃遮女が釈尊の子を身ごもったと誹謗した事件。釈尊に近づいた孫陀利という女性が殺害され、それを釈尊らの仕業だと喧伝された事件である。
当然ながら、いずれも百パーセント、完全な捏造事件であった。火のない所に煙を立てる、狡猾に仕組まれた大嘘である。怨敵たちは、ここぞとばかりに結託した。
釈尊を陥れ、″尊崇を集める仏陀も汚辱にまみれた人間にすぎない″と、その偉大な徳望を失墜させようとする陰謀であった。そしてまた、釈尊とその弟子たちとの強固な信頼の絆を狙い撃ちし、破壊しようとしたのだ。
しかし、正義の師弟の結合は揺るがなかった。弟子は猛然と反撃に打って出たのだ。
真実は完璧に明らかにされ、狂言を撒き散らした輩は峻厳に断罪された。
どす黒き、陰険な策士どもは、人びとから「この嘘つきめ!」と唾を吐かれ、地獄の苦悩の業火に包まれたと、仏典に記されている。時の王は、外道の一味に厳命したという。
「『仏陀にも、仏陀の弟子にも罪はない。罪は我々にある』と言いながら、都中を謝罪して回れ!」と。
正邪の決着は、一分の妥協もなく、後世に残していかねばならない。これが、「仏法勝負」の証となるからだ。
仏を汚すことは絶対に不可能である。仏典は、この一点を厳正に説き明かしている。
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