Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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新世紀の光・埼玉  

2004.3.3 随筆 人間世紀の光1(池田大作全集第135巻)

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1  一人ひとりが師子となれ!
 「今世紀は二歳だった!」(「秋の木の葉」辻昶・稲垣直樹訳、『ユゴー詩集』所収、潮出版社)
 一八〇二年に生まれたフランスの文豪ユゴーは、高らかに自分が誕生した十九世紀の年齢を歌った。
 それから二百年を経た二〇〇一年(平成十三年)、希望に輝く百万都市「さいたま市」が誕生した。
 詩人の言を借りるならば、「二十一世紀は一歳だった!」「わが街と共に、二十一世紀は生まれた!」ということになろうか。
 つまり、埼玉が大発展と大勝利の年輪を、一年また一年と重ねゆくことは、二十一世紀を一段と輝かせていくことになるのだ。
 ユゴーは言った。
 「外に現われては公衆の勢力と、内にあっては個人の幸福と、その二つが結びつく時に、社会の繁栄が生じてくる」(『レ・ミゼラブル』豊島与志雄訳、岩波文庫)と。
 まさに、わが創価の民衆の大行進と合致する。個人における人間革命と、その一人ひとりが連帯しての社会貢献、社会改革――そこに、社会の繁栄の大道がある。
 ともあれ、埼玉は、新しき世紀の先頭を走りゆく運命と使命を持っていると、私には思えてならない。
 埼玉には、力がある。埼玉には、勢いがある。
 そして、埼玉には、断じて勝つとの闘魂が光っている。
 私は、本当に嬉しい。
2  わが師である戸田先生が、埼玉の同志に寄せる期待は絶大であった。
 ゆえに「埼玉よ立て!」と叫ばれる先生の指導も、それこそ日本全体を相手にするようなスケールであった。
 師は、埼玉の友に言われた。
 ――諸君は、宗教家になってはならない!
 私も共に指導者として日本救済のために立つから、一緒にやってほしい。これが皆に望む精神である。広宣流布は、絶対に我々の手によってなさねばならない、と。
 それは、五十年前の昭和二十九年、あの懐かしき豊島公会堂で行われた、第三回志木支部総会の席上であった。
 社会から遊離し、観念にふける、いわゆる傲慢なる「宗教家」には絶対になるな!
 一人の人間としての「信仰者」であれ! そして、模範の「社会人」であれ!
 その自分自身の人間革命に挑戦しながら、現実の社会の変革を成し遂げゆかんと戦う人間こそ、立派な人であり、その人が「英雄」なのである。ここにこそ、日蓮仏法を行ずる私たちの社会的使命があることを知らねばならない。
 ともあれ、首都圏の広宣流布の大電源地ともいうべき、埼玉の使命と力は、あまりにも大きい。
 わが師・戸田先生が、「大埼玉が立てば、大東京が動き、大関東が動く。そうなれば、日本が変わる。私と共に広宣流布を!」と師子吼されたのは、有名な話である。
 そして今、不二の弟子である私も厳然と叫びたい。
 心から愛し、心から信じる埼玉のわが同志よ! 一人ひとりが師子となれ!
 全生命が喜び震えるような自信と確信をもって、猛然と立ち上がれ!
 これほどの使命深き無上の歓喜の人生はないからだ。
 誰人も一生は一生である。その一生を最高に有意義に生き抜くために、仏法はあるのだ。信心はあるのだ。広宣流布があるのだ。
 そのことを知り、広布を断行していく我々には、一点の曇りもない。後悔もない。
 ゆえに、ひとたび戦いを起こした以上、断じて勝利の喜びの旗を立ち上げるのだ。
3  戸田先生はよく、「三類の強敵がまだ出現しないことは、悲しいことだ。寂しいことだ」と叫んでおられた。
 この「三類の強敵」とは、御聖訓に説かれた通り、法華経の行者を迫害する三種類の敵人のことを指す。
 正義の学会の発展に伴い、第一の迫害者である「俗衆増上慢」、第二の「道門増上慢」は現れた。
 しかし、当時、第三の「僣聖増上慢」は、いまだ現れていなかった。
 それは、″聖者の仮面″を着けて民衆を睥睨する、陰湿な権威の坊主であり、そこには、必ず、これと結託した横暴な国家権力の暗躍がある。また、今日でいえば、人権蹂躙のマスコミも含まれよう。
 「つねに視野が狭いのは、うぬぼれが強いからである。またうぬぼれが強いのも、視野が狭いからなのだ」とは、文豪トルストイの言葉である。あたかも傲慢なる″増上慢″の本性の一端をわかりやすく示したような、鋭き洞察といえる。
 戸田先生は、「権威で飾り立てた、最も卑しく、ずる賢き、仏法で説く第三の強敵・僣聖増上慢を、決然と迎え撃ちたいのだ」と言い放っておられた。
 先生は、埼玉の同志に力を込めて訴えられた。
 「この僣聖増上慢が出ると、私も嬉しいと思うが、皆さんも嬉しいと思ってもらいたい。その時こそ、仏になれる時だ。最高の名誉をもって敢然と戦おうではないか!」
 「難即悟達」である。
 「難即幸福」である。
 これが、仏法の方程式であるからだ。
 正義ゆえの迫害は、仏法者の誉れだ。「賢聖は罵詈して試みるなるべし」と仰せの通り、乗り越えた迫害の大きさが、仏法の師子王の証明なのである。
 わが創価学会への、近年の大迫害は、恩師の待望された「僣聖増上慢」をはじめ三類の強敵が紛然と競い起こった姿であった。
 見よ、あの邪悪な、極悪の正体を晒した姿を!
 これを戸田先生がご覧になれば、どれほど喜ばれたことであろうか。
 敢然と戦おうではないか!
 暗闇から極悪の正体が現れた時こそ、悪を滅する極善の太陽が輝く時だ。広宣流布の時は「今」なのだ!

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