Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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永遠なる二月の闘争  

2004.2.20 随筆 人間世紀の光1(池田大作全集第135巻)

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1  勇敢に堂々と正義を叫べ!
 戸田先生は、私たち青年に対して、「本を読め、本を読め!」「今、何を読んでいるか?」と大変に厳しかった。私は体も弱く、仕事も難儀で、いわば、つらい一日一日の青春であった。しかし、師の目指す大願に対する真剣な行動と真剣な努力は、一日も欠かさなかった。全速力で目標に向かっていった。つらかった。厳しかった。だが、一日一日、勝った。
 その勝利の結晶が、人生の総仕上げを、栄光の黄金の名誉で包んでくれている。何ものも恐れない勇気と慈愛の、悔いなき壮大な勝利の人間の殿堂をつくった思いがするのだ。
 先生が「読め」と言われていた人物に、スイスの大思想家ヒルティがいる。ある時読んだ、そのヒルティの本に、こうあったのを懐かしく思い出すのだ。
 「苦悩をみずからすすんで受けいれ、それをば自分のよりよき本質の建設のために立派に利用しうる人は、あくまでも気高い、そして敗れることのない人である」(『幸福論』草間平作・大和邦太郎訳、岩波文庫)と。
 ともあれ、我らには「煩悩即菩提」「生死即涅槃」という深遠な大哲理がある。そして「広宣流布」という人生の究極の大目的がある。
 「うれしきかな末法流布に生れあへる我等
 この御聖訓を胸に響かせながら、私たちは使命と充実と歓喜の連帯を広げゆくのだ。
 「自分の仕事を見出した人は幸福だ。彼をしてほかの幸福を探さしめるなかれ。彼には仕事があり、人生の目的があるのだ」(『一日一章 人生読本〈10〜12月〉』原久一郎訳、社会思想社)
 これは、大文豪トルストイが留めた、英国の思想家カーライルの箴言である。
  恩師あり
    妙法ありて
      わが一生
2  師・戸田城聖先生は、戦う魂を弟子に打ち込まれた。
 「法が正しいほど、魔が競い起こり、強敵が顕れる。世間では、仏法者は従順と思っているが、とんでもない。邪悪に対しては、決して妥協するな。徹して責め抜け!」
 「破邪」なくして「立正」はない。
 大聖人は、「悪法によって人を地獄に堕とすであろう邪師を見ておきながら、その悪を責め、明らかにしないならば、その人はかえって仏法の中の敵となる」(同一一五六ページ、通解)と仰せだ。
 戸田先生の火を吐く師子吼は、百獣を震え上がらせる気迫であった。厳しいといえば、これほど厳しい指導者はいなかった。それは、人間を不幸にする悪逆を、絶対に許さなかったからである。
 わが大切な学会員が傲慢な坊主らに苛められているのを、もしも見て見ぬふりをするような臆病な幹部がいたら、「なんたる無慈悲か!」と激怒された。
 「二六時中、会員のことを考え、守ってこそ、広宣流布の指導者である」と、身をもって示される師であった。
3  二月は、日蓮大聖人の御聖誕の月であり、わが師の誕生月でもある。
 一九五二年(昭和二十七年)、蒲田支部の支部幹事となった私は、広宣流布の共戦の同志に訴えた。
 「この二月、見事な勝利の結果をもって、戸田先生の誕生の月をお祝いしようではありませんか!」
 二十四歳の生命は、真剣の炎、闘争の炎、執念の炎となって、第一線に躍り出た。
 まず自分が燃えることだ。冷たく黙したままの石でさえ、打ち合えば火花が生じる。いわんや、熱い魂と言葉をもった人間が打ち合うならば、心に火を灯せぬはずは絶対にない。
 蒲田支部は、この二月の一カ月間で二百一世帯の本尊流布を達成した。これが、ご存じの通り、「伝統の二月」の淵源である。
 「志さえあれば方法はいくらでもある」(「革命の成功はすべて主義の宣伝いかんにかかっている」西村成雄・伊地智善継・山口一郎監修『孫文全集』2所収、社会思想社)とは、中国革命の父・孫文の叫びである。
 いかなる困難があろうとも、断じて責任を全うせんとする心が、現状を打開する智慧と力を引き出すのだ。大自然の運行自体に、冬の厳しい環境を破る力がある。二月、草花の芽は、凍てつく大地を割ろうとしている。生きとし生けるものが、春へ春へと、耐え抜いた力をいよいよ解き放ち始める時だ。
 「法華経を信ずる人は冬のごとし冬は必ず春となる、いまだ昔よりきかず・みず冬の秋とかへれる事を、いまだきかず法華経を信ずる人の凡夫となる事を
 幾たびも生命に刻んできた御金言である。
 二月を勝て! これが地より湧き出たる地涌の生命の誇りだ。ここに、一年の向上と勝利のリズムがあるのだ。

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