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日蓮大聖人・池田大作

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アメリカ創価大学の挑戦  

2004.1.9 随筆 人間世紀の光1(池田大作全集第135巻)

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1  学び抜け 民衆のために!
 「諸君よ、『祖国が諸君のために何をしてくれるか』を問うなかれ。『自分が祖国のために何ができるか』を問いたまえ!」
 理想に燃えて新しきアメリカの建設に挑んだ、第三十五代大統領ケネディの、有名な就任式での演説であった。
 二〇〇一年の開学から四年目に入る、わがアメリカ創価大学(SUA)の学生たちも、かの若き大統領に劣らぬ挑戦の心を燃やしている。
 「私たちがSUAの建設の主体者だ!」。これが学生たちの気概である。
 教員の一人が語っておられたそうだ。
 ――他大学の学生は、多くの場合、経済的に豊かになるために教育を受けようと考えがちだが、SUAの学生は″よい仕事を得るため″とか、″裕福になるため″等の、自分の欲求のためだけには学んでいない。彼らは他者を気遣う心にあふれ、常に″何のために学ぶのか″を意識して勉学に取り組んでいる――と。
 なんと素晴らしい学生たちであろうか!
 今すぐにも、私は、オレンジ郡アリソビエホの美しきキャンパスに飛び、君たちと固い握手を交わし、未来を大いに語り合いたい。
 先日も、中国・広東省の総合大学「肇慶学院」から私への名誉教授称号の授与式に、SUAの学生たちの凛々しき姿があった。それは、短期留学や帰省などで日本に滞在中のメンバーや、新たに第四期生として入学が決まっている友の代表らであった。
 「二十一世紀の『人間主義』『平和主義』『文化主義』の勝利を託す宝の英才、ようこそ!」と呼びかけると、皆、弾ける笑顔で応えてくれた。″若き創立者″の決意に燃えていた。
 四期生が入学すると、全学年が誇りも高く揃いゆくのだ。そして、未来への希望に燃えゆく明年(二〇〇五年)には、いよいよ最初の卒業生として一期生が羽ばたくのだ!
 SUAの輝く未来を想い、私の胸は喜びに高鳴る。
 これまで、SUAを訪問された、ポーリング・ジュニア博士、マハトマ・ガンジーの令孫アルン・ガンジー博士、モアハウス大学のカーター所長、ノーベル平和賞受賞者のロートブラット博士、デラウェア大学のローゼル学長、ノーベル財団のマイケル・ノーベル博士、アメリカ実践哲学協会のマリノフ会長など、多くの識者も、絶大なエールを送ってくださっている。
 本当に嬉しい限りだ。
2  「世界市民」の育成をめざすSUAでは、外国語の習得に力を入れている。
 学生は、中国語、スペイン語、日本語から一言語を選んで、三年次の一学期間、その言語が話される国に短期留学できる。「生きた語学」を学ぶコースが開かれている。
 既に留学を終えたメンバーは、「世界市民としての使命を実感できた」と勇んで語っていたそうだ。また、これから出発する友もいる。
 私は、深き使命に生き抜く″学びの旅″が、健康で無事であるよう祈っている。
 一方、キャンパスでは、冬季休暇が明けると、再び真剣勝負の勉学の日々が始まる。
 温暖なカリフォルニアとはいえ、一月の夜は冷え込む。そのなかで、二十四時間、休むことなく開いている図書館の学習室の灯も、深夜まで輝くことになる。
 睡魔と戦いながら、「あと五分頑張ろう」「このパラグラフ(段落)だけは読み切ろう」と、分厚いテキストと格闘する友がいる。父親が病に倒れるなど、心配事を抱えながら、猛勉強している人もいるだろう。
 苦労や悩みのないことが幸福ではない。労苦のなかで、「金剛の人格」を鍛え上げた人が幸福なのである。本来、この人格を築き上げることを「教養」というのだ。
 若き日の創価教育の父・牧口先生も、貧しく、働きながら学ぶしかなかった。わずかでも時間ができると、必ず本を開いた。その勤勉な姿は、周囲から「勉強給仕」と呼ばれるほどであった。
 学んで、学んで、徹して学び抜く――牧口先生の偉大さは、その大情熱を、一生涯、民衆の幸福のために燃やし続けたことだ。
 SUAに学ぶ諸君も、同じである。「民衆のため」という尊い使命の前には、勉強のしすぎ、学びすぎということは絶対にない。諸君はあくまで理想を高く、偉大なる人生の、使命ある人生の幾山河を歩み抜いてほしい。諸君は、決意も固き先駆者である。
 古今東西、庶民からかけ離れ、自己の利欲のために人びとを踏みつけにして恥じぬ、「才能ある畜生」のごとき指導者、エリートがなんと多かったことか。
 諸君が、この非人間的な不幸の流転を、断じて変えるのだ!
3  SUAは、数多くの市民の願いと熱意が凝結した″民衆立の大学″である。
 そうした陰の一人に、草創からの同志である、神奈川の功労者がおられる。
 一九六四年(昭和三十九年)、私が発表した創価大学の構想が、彼の人生を変えた。深く共鳴した彼は、自分も未来のために教育に貢献したいと、消防士を辞め、私財を投じて幼稚園を設立されたのだ。
 私と同年の岸さんは、戦争で兄を失い、働きながら苦学を続けられた。だからこそ、教育を大事にする情熱は人一倍であった。
 大阪・交野の創価女子学園(現・関西創価学園)の開校二年目には、地方出身の生徒のためにと、自ら私設の″寮″を提供された。私が彼と初めてお会いしたのも、この″寮″であった。創価大学を支える″父母の集い″では、神奈川県の責任者を務められ、札幌創価幼稚園の設立の時は、幼稚園経営の経験を踏まえた貴重な助言をいただいた。
 晩年の数年間は病魔との闘いであったが、SUAの建設を心から支援してくださった。亡くなる直前まで、SUAが旭日のごとく発展する姿を、わが眼で見たいと願っておられた。
 そして二〇〇一年の六月、SUAの開学を見届けるかのように、七十三歳で逝去されたのである。
 私は、SUAのキャンパスに、岸さんを偲ぶ木を植えていただいた。
 この尊き偉大なる力を持つ、庶民という英雄の「心」を絶対に忘れてはならない。

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