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日蓮大聖人・池田大作

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反ユダヤ主義と戦うサイモン・ウィーゼン… ハイヤー会長

随筆 世界交友録Ⅰ Ⅱ(前半)(池田大作全集第122巻)

前後
1  「これが、アンネ・フランクの直筆の詩です」
 ハイヤー会長が、ガラス・ケースに入った小さなサイン帳を指さした。
 アンネが十歳のとき(一九四〇年三月四日)、幼なじみにあてた詩であった。
  親愛なるへニー
  ささやかなものだけど
  あなたにあげましょう
  野に咲くバラと
  忘れな草を摘んで──
 短い言葉に、優しさと、美への感受性が、あふれでいる。
 聞かれた両方のぺージには、花籠の絵が。左の花籠から、平和のハトが手紙をくわえて飛び立っていた。
 この詩の二カ月後だった。少女の住むオランダが、ナチスに侵攻された
 アンネは、アムステルダムの隠れ家に息をつめて二年余を暮らしたが、ついにゲシュタポに逮捕され、強制収容所に送られて死んだ。わずか十五歳だった。
 ただユダヤ人であるというだけで──ナチスは六百万の方々を虐殺したのである。
 彼らは母親の目の前で赤ん坊を地面にたたきつけ、子どもたちに生体実験を施し、うすら笑いを浮かべながら人々をガス室に追いやり、「気晴らしに」射殺した。
 そのナチスが、ユダヤの人たちを何と呼んでいたか。
 「ユダヤ人は残虐非道」であり、「人心を腐敗させる」「人間のくず」だと、正反対のデマ宣伝を続けたのである。全部、ナチス自身のことであった。
 しかし、繰り返された嘘は、一滴一滴、毒薬のように、人々の心と頭脳に染みこみ、感覚を麻痺させていった。やがて、悪魔の所業を見ても何とも思わないまでに変えられていったのである。
 「忘れな草」。アンネが友だちに贈ろうとした花の名は「私を忘れないで」だった。
 だれが、あなたを忘れようか。
 だれが、あなた方を忘れようか。
 ハイヤー会長が「サイモン・ウィーゼンタール・センター」を創立したのも、ホロコースト(大虐殺)の悲劇を、永遠に「忘れさせない」誓いからであった。
 「忘れさせない」。しかし、それは容易なことではなかった。
 人々は忘れたがった。加害者はもちろん、時には被害者までが。
 「記憶は、もろく、ゆがめられやすいものです」
 ハイヤー会長は言う。
 「もしも、私たちが『忘れず』『忘れさせない』努力をしなければ、いつか、こんな日が来るでしょう。幾百万の男性が、女性が、子どもたちが死の収容所に送られた列車の無気味な音──『そんなものはなかったのだ』と、だれもが信じこんでしまう日が」
2  嘘を許せば ヒトラーが生まれる
 ハイヤー会長の戦いは、センターがその名を冠するサイモン・ウィーゼンタール氏を継承する。
 サイモン・ウィーゼンタール氏は強制収容所から生還したあと、「生き残った者の義務」として、姿を隠したナチスの戦犯を捜し出し、法の下に裁くために生きてきた。
 氏は主張した。「ナチス狩りは憎しみではない、正義なのだ」「復讐ではない、当然の権利なのだ」と。
 「サイモン・ウィーゼンタール氏がいなかったら、世界はホロコーストに真剣な注意を払うことはなかったでしょう。一九四五年から六〇年代までの『忘れさせるための圧力』は、すごかったのです」(ハイヤー会長)
 その政治的圧力の理由を「死んだユダヤ人は投票しないが、生きている元ナチスは票をもっているからだ」と説明した人もいる。
 こんなことがあった。一九五八年である。
 「アンネ・フランクなんて生きていなかった。ユダヤ人たちがもっと損害賠償金をふんだくるためにでっちあげたものなんだ。これの言葉を一つも信じてはならない。これはインチキなんだ!」(『殺人者はそこにいる』中島博訳、朝日新聞社)
 『アンネの日記』の劇に反対する若者たちがデモを行い、こんな文書を投げつけたのである。
 オーストリアのリンツだった。
 ウィーゼンタール氏は知らせを聞いて駆けつけた。
 調査の結果を氏は書いた。
 「これらの若い乱暴者たちに罪がなく、彼らの両親や教師たちにこそ罪があった。年輩の連中は、彼らが自分たちの疑問に満ちた過去を正当化したいばっかりに、若い世代の心に毒を注射しようとしていた。(中略)彼らは歴史から何一つ学びとってはいなかった」(同前)
 アンネの日記も「偽作」であり、収容所のガス室は「ただ衣服の殺菌消毒のために使われた」という、意図的な嘘がまかり通っていた。
 日本で「南京大虐殺はなかった」などというデマが流され続けているのと似ている。
 嘘は放置すれば、雑草のように、はびこってしまう。その荒廃から生まれてくるのは、第二、第三のヒトラーであろう。
 「過去を忘れた社会に、未来はありません」(ハイヤー会長)
 会長ご自身にも、こんな経験がある。会長はアメリカ育ちだが、ご両親のポーランドの親族のほとんどをナチスに殺された。
 ウィーゼンタール氏に会いにウィーンに来たとき、会長は理容店に行って恐るべきものを見た。ヒトラーのサイン入りの写真が、うやうやしく飾ってあったのである。
 ひどいショックだった。七〇年代も後半である。ネオナチどころか、ナチズムそのものが、この世界に生き続けているのだ。
 こういうなか、ウィーゼンタール氏の戦いが、どれほどの妨害にあったか、想像にかたくない。
 しかも氏の国際的名望は高い。″彼ら″には、氏が目ざわりでしかたがなかった。
 何度も命を狙われ、スキャンダルを捏造され、信用を失墜させようと、あらゆる策謀が仕掛けられた。
 そのなかを半世紀、戦い続けてこられたのである。
3  希望はある! 黙らないかぎり
 平和のために「悲劇を忘れるな」と繰り返すのは、罪であろうか。
 アウシュビッツや南京を否定することは、虐殺された人々を、「もう一度、殺す」ことではないだろうか。
 歴史の真実を教えず、青年の目を閉ざそうとすることは、恥やすべき歴史をもっていることよりも、さらに恥ずかしいことではないだろうか。
 日本がアジアの各地で行った非道さは、ナチスと変わりがない。
 ごまかそうとしても、世界が知っている。嘘を重ねるほど、軽蔑され、孤立するだけであろう。
 戦後、日本のアジア侵略について、「ニッポン・タイムズ」は、こう書いた。
 「日本人は、自分たちが考えていたことと、世界のほかの人々がほぼ常識と受けとめたことのあいだに、なぜこれほどのずれがあるのか、よく考えてみるべきである。これこそ、日本がみずから引き起こした悲劇の根底にあるのだ」(イアン・プルマ『戦争の記憶日本人とドイツ人』石井信平訳、TBSブリタニカ)
 ナチスは、アーリア民族を選ばれた民族とした。日本の軍国主義は、日本を神国と呼んだ。
 特別に「神聖な民族」があるという思想は、必然的に、「劣等な民族」があるという嘘をつくり出す。
 ナチスにとって、ユダヤ民族やジプシー(ロマ)がそうであり、軍国日本にとっては中国民族や朝鮮民族がそうであったろう。
 この嘘が、あれほどの暴虐を生んだのである。
 ウィーゼンタール氏はハイヤー会長のことを「ダイナマイト」と呼ぶ。「ちっとも、じっとしていない。いつも、だれもやろうとしなかったことに挑戦している」
 知的で洗練された会長の風貌の下に、悪への崇高な「怒り」が燃えている。
 会長は、反ユダヤ主義のデマがあれば、直ちに反撃する。抗議し、謝罪させ、広く事実を知らせ、「毒草の根を抜く」ために、あらゆる方法で戦う。
 講演する。書く。テレビ討論に出演する。各国の指導者と会見する。
 アメリカ議会で公聴会を開き、ネオナチの脅威に警鐘を鳴らしたこともある。
 小さなデマでも許さない。″文明社会″が、あっという間に″悪魔の社会″に転落した歴史の教訓を忘れないからだ。
 そして「人権」を教えるために「寛容の博物館」を創り、ハイテクを駆使して、視覚的に、ホロコーストをはじめとする差別の実態を教えたのも会長である。
 さらに映画会社を創り、みずから製作や脚本まで手がけて、「真実」を訴える。ナチズムに共感している青年たちに対して人権教育をする。休むことがない。
 ウィーゼンタール氏は「希望は生き続ける。皆が過去を忘れないかぎり」と言ったが、ハイヤー会長の活動は、こう呼びかけている。
 「希望は生き続ける。あなた方が黙ってしまわないかぎり」と。

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