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日蓮大聖人・池田大作

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人間愛に生きるオーストリア文部次官、歌… サイフェルト女史

随筆 世界交友録Ⅰ Ⅱ(前半)(池田大作全集第122巻)

前後
1  人生を何倍にも生きている方である。
 歌手で政府高官。哲学博士で、良き家庭人。
 ユッタ・ウンカルト=サイフェルト女史のエネルギッシュな人生を思うとき、あの大らかな笑顔とともに、一つの風景が浮かぶ。
 ウィーンの墓地。少女が盲目の父の手を引いて、やって来る。父はコンサート歌手。家計のために葬送の音楽も引き受けていた。
 少女は幼いが、曲が終わるまで、参列者とともに、おとなしく聴いている。いたわるような目で、父を見守りながら。
 陽が移るにつれて、木の影が動く。少女は時折、太陽を仰ぎ、空の遠くを見つめた。
 「私にとって、これが一番の基本的な人生の学校でした。わずか五歳で御棺の前に立つのですから。自然のうちに、死とは何か、その裏返しの生とは何かを考えるようになっていました」
 「今も思います。人は、なぜ生きるのか。食べるために生きるのか。くだらないテレビを見るために、人の悪口を言うために生きているのか。戦争をするために生まれてきたのか。そんなことはないはずです。『死』を直視する人は、かけがえない『人生』の貴重さに気づきます。そして、寸暇を惜しんで自分を磨くはずです」
2  父よ母よ、精神の宮殿をありがとう
 少女にとって、父は歌の師でもあった。第二次世界大戦中、爆撃で家は壊れたが、音楽の部屋だけは残った。一人娘の女史のゆりかごもそこに置かれた。
 父は、たくさんの生徒をもっていた。一日に十時間、十二時間とレッスンをした。音楽の精妙な手が、日夜、ゆりかごを揺らした。
 母も父と同じく、目が不自由だ父母は戦争中、体に障害があるという理由で強制収容所に送られそうになった。ひどい差別だった。ひどい時代だった。四人の親族も戦争の犠牲になった。
 それでも両親は、いつも朗らかだった。娘のために、あえてそう生きたのかもしれない。「本当に幸せな子ども時代でした」と女史は言いきる。両親の世話や、歌と楽器の勉強のため、他の子どもたちのように自由に遊ぶこともできなかった。それでも苦しいとか、つらいとか思ったことはなかった。
 「すばらしき歌曲の世界。それは『精神の宮殿』でした。毎日、その中で育ちました。それが私の心の糧になりました。盲目であった亡き父母に、今、心から『ありがとうございました』と掌を合わせているのです」
 民音公演で女史が歌ったシューベルトの「音楽に寄す」は、女史の思いそのものであろう。
3   やさしい芸術よ、何と数多くの灰色の時
  人生に容赦なくわずらわされた時に
  私の心に火をつけて暖かい愛情を感じさせ
  よりよい別世界に運んでくれたことでしょう!
  (浅香淳編『新編世界大音楽全集部シューベルト歌曲集4』石井不二雄訳、音楽之友社)
 「より善き世界」を、聖なる何かを──サイフェルト女史にとって、音楽の探求と生死の探求は、一つだった。
 「芸術は私たちの中にある『聖なるもの』の表現なのです私はコンサートのたびにこう言います。『歌っているのは私ではなく、私の心にある″神聖なる魂″なのです』と」
 芸術と宗教性は表裏一体である。芸術なき宗教は殺伐として不毛であり、永遠なるものを求めない芸術は、造花のように、胸を打つ″生命″がない。
 女史はウィーン大学に進み、ドイツ文学、古典文献学をはじめ「興味のあることは全部」ひたむきに学んだ。哲学博士号を得た学位論文は「ショペンハウエルにおける言語構造」であった。
 音楽から遠ざかった娘を、父は少し寂しそうに見ていたという。
 その父が死んだ。すると不思議なことが起こった。「もう一度、歌いたい。音楽のない人生は考えられない」という気持ちが、こみ上げてきたのである。
 父の死とともに、父の歌まで消えさせたくなかった。
 お父さん! 今度は私が歌います──。十年間のブランクを埋めるのは大変だった。一から、やり直した。
 官庁の仕事も苦しかった。「女は家にいればいいんだ」と何度も言われた。
 「無理解との戦いでした。人の五倍は働きました。健康で、どんな苦しみもはね返すエネルギーがなければ負けてしまったと思います」
 モットーである「意志あるところ、必ず道あり」のとおり、努力、努力の毎日だった。女史は今、文部次官で国際文化交流局長。
 早くから東欧との交流も献身的に進めてこられた。民主化以降、旧ソ連・東欧の芸術家は精神的には楽になったが、経済的には苦しくなった。政府に文化を援助する余裕がないのである。
 女史は、才能ある若人にチャンスをあたえたいと東奔西走された。損得ではなく、なすべきことをなすべきときに。それが女史の生き方である。

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