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日蓮大聖人・池田大作

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フランスの透徹した文人 アンドレ・マルロ一氏

随筆 世界交友録Ⅰ Ⅱ(前半)(池田大作全集第122巻)

前後
1  アンドレ・マルロー氏が私に問うた。
 「あなたの眼には、人間にとって、なにが最も重要なものと映りますか?」
 パリ郊外ヴェリエールにある、氏の自宅の書斎であった。五月の午後。窓から光が束となって差し込んでいた。十七世紀に建てられたという古風な館である。庭では、藤の花房が柔らかに影を落としていた。
 その前年(一九七四年)のやはり五月、東京で初めて、お会いした。モナ・リザ展のため、フランス政府の特派大使としての来日であった。
 薄いグリーンの目が、炯々として光を放っていた。よく動き、ときに大きく見開く。その生き生きとした、きらめきがじつに印象的だった。骨太で長身の体から、何かが発していた。当時、七十三歳。行動し、書き、一刻の停滞もなく一生を駆け抜けてきたエネルギーは、衰えていないようだった。
 「百の生涯を生きた」と称される。インドシナの密林にクメールの微笑を追って、体験を『王道』に書き、中国革命の動乱のなかから『征服者』『人間の条件』を生み、スペイン内乱では国際義勇軍の飛行隊長として六十五回も出撃、その合間に大作『希望』をつづった。ナチスへのレジスタンスで勇名を馳せ、戦後はドゴール政権での文化大臣として、空前の国際文化交流も実現させた。
 映画監督、美術評論家としても傑出した業績が認められている。齢七十にしてなお、バングラデシュ独立のために戦場に立とうとされた。
 ゲーテは「はじめに行動ありき」と『ファウスト』に記したが、そのゲーテにも似通う「全人」ぶりである。二十世紀のレオナルド・ダ・ヴインチと呼ぶ人もいる。この超人的に多彩な軌跡は、しかし、ただ一つの問いから発していた。
 「人間は、いかにして宿命を転換できるか?」
 氏が「人間の条件」と呼ぶとき、死に脅かされる「人間の宿命」を指す。死が一切を無に終わらせるなら、人生に何の意味があるのか。人生は「不条理」すなわち「ばかばかしい」ものではないか。
 キリスト教が衰えた後、他に何の「至高の価値」も見いだせない西洋文明。「神が死んだ」あと「人間も死んだ」のでは? 人間は、魂なき人形になってしまったのか? 欲望に動かされるだけのロボットか?──と。
 この巨大な空虚は今や、西洋のみならず全地球をおおいつつある。どうすれば人間は人間に戻れるのか。尊厳なる人間性を取り戻せるのか。この根本課題を避けて、何を論じ、何をなそうと、砂上の楼閣であろう。
 マルロー氏は私に語った。「おっしゃるところの『人間の尊厳』について、かつて私は小説にこう書いたことがあります。ある農民の革命家が、ファシストの手で拷問されながら、『人間的尊厳とはなにか』と相手から訊かれ、こう答えるのです。『そんなこと、知るものか! わかっているのは、屈辱とはなにか、このことだけだ!』と‥‥」
 氏にとって、革命も、芸術も、政治も、すべてが「反宿命アンチ・デスタン」の戦いであった。宿命の奴隷となる屈辱をはねのけ、反対に宿命を牛耳る主人となろう。高貴なる、不死の人間性をおとしめる一切と戦おう。「死が勝つか、希望が勝つかだ」。その「決闘」を氏は英雄的に生き抜いた。
 『征服者』の主人公はつぶやく。「人生で貴いことが一つある。それは、けっして打ち負かされないってことだ。まいらないってことだ」(小松清訳、新潮社)
2  日本と世界の進路について──氏の目がふたたび光った。「根本的に重要なことは、なにが中心課題かを知ることです。‥‥現時点では、最も重要なものは人間ということになりましょう。あなたの眼には、人間にとって、なにが最も重要なものと映りますか?」
 「──人間自身の変革がどうすれば可能かということでしょう」。人間を変えずして、何を変えられよう。私は人間革命の理念を語った。「ここから前へ、さらに先へ、限りなく自分自身を超えていく」一人の人間の精神闘争。それが、社会に波動をあたえ、やがて全人類の宿命をも転換する。
 「人間の尊貴さは、その無限の可能性にあると信じ、そこに一切をかけ、それを規範として行動していきたいと思います」と。
 「期待しています」。氏の言葉の重みは、今も私の胸にある。氏は何度も私に「歴史的責任」「歴史的行動」への期待を語ってくださった。数世紀を見つめての行動という意味であろう。
 氏は「辻馬車から宇宙船まで、たった一世代のうちに変化をとげるのを見てきた」世代として、想像を超える二十一世紀の可能性を語られた。
 「いまから百年後に二十世紀文明と絶対的に異なる文明が起こりうるということが、当然、考えられてしかるべきでしょう。その場合、かつてヨーロッパにキリスト教がもたらした精神革命といったものが、ふたたび仏教によってもたらされないという保証はどこにもない、ということです」
 環境、核、人間形成、新しき騎士道、文化と宗教、社会主義の未来──前後二回の対話をまとめた一書に、私は『人間革命と人間の条件』(本金集第4巻収録)の題をつけた。
3  月光を浴びて立つ人
 ナチスからルーブルの至宝を守った美術史家ルネ・ユイグ氏とも私は対談集を編んだ。氏はマルロー氏と、レジスタンス以来の友人である。占領下のあるとき、両氏は夜道を車で走った。月が皓々と冴え渡っていた。「歩こう」。突然、マルロー氏が車を停めた。
 いつナチスに見つかるかも分からない。ユイグ氏は気が気でなかったが、悠然と歩むマルロー氏に続いた。ふとマルロー氏が、深いもの思いにふける面持ちで言った。「文明の中心は、かつてエーゲ海から地中海に移った。さらに地中海から大西洋に移ってきた。次は、きっと大西洋から太平洋に移っていくだろう」
 明日をも知れぬ戦時下にあって、はるかなる未来を展望するスケールの大きさにユイグ氏は驚いたという。「つねに大局的なものの見方のできる偉大な人物でした」

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