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日蓮大聖人・池田大作

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アルゼンチン軍政への抵抗 デリッチ コルドバ大学総長

随筆 世界交友録Ⅰ Ⅱ(前半)(池田大作全集第122巻)

前後
1  幸福の条件は何だろうか。それは「後悔がない」ことではないだろうか。
 コルドバといっても、なじみが薄いかもしれない。あの「母をたずねて三千里」(「クオレ」の一物語)に出てくる町である。イタリアの十三歳の少年マルコは、アルゼンチンに出稼ぎに行ったまま音信不通の、お母さんを捜しに、大西洋を渡った。
 心細い一ヵ月の船旅。首都ブエノスアイレスに着いて、やっと会えると思ったとたん、「お母さんはコルドバへ行ったよ」と聞かされる。七〇〇キロも離れた町。マルコは、くじけそうな心を励まして、ラプラタ川をさかのぼる。
 疲れに苦しみ、飢えや恐怖と戦い、無情な大人につきとばされながら、母という希望に向かつて歩き続けた。
 「ここまで来たんだ。どうしても歩き通すんだ!」。そしてコルドバからさらに七〇〇キロも離れたアンデス山脈の麓の町で、やっと「希望」に出あえたのである。
 母も、生きる希望を失って、重病の床にあった。思いもよらなかったマルコとの再会。少年を抱きしめて、母の生命の力は蘇った──。
2  「私の両親も、クロアチアからの移民で、貧しい農家でした」
 コルドバ大学のデリッチ総長が、名古屋のホテルで語ってくださった(一九九四年四月)。窓を夕焼けが懐かしい色で染めていた。
 デリッチ博士は八人兄弟の末っ子。「父母はいつも一生懸命、粘り強く働いていました。その汗を通して、働くことの厳しさと尊さを教えてくれたのです。母は文字も読めず無学でしたが、別の意味で、知恵をもっていました」
 母の教えは二つあった。「働かずして、もうけてはいけない」「人と話すとき、嘘をつくな。相手を尊敬しなさい」
 どちらの信条も、かつては日本でも教えられた。今は、汗なくしてもうけることを礼賛し、指導者層も平然たる嘘。魂なき国になったことが悲しい。
 デリッチ博士は、母の教えを守った。正しき人間の道を守った。軍政時代の闘争は有名である。
 七六年、三十九歳の博士はペルーにおられた。国立コルドバ大学を追放された身だった。戦後のアルゼンチンは軍政と民政が交互に繰り返され、七六年初めは民政の末期。すでに全体主義に大きくかたむいていた。
 ペルーで国連の専門官として働いていた博士は、その前年の暮れ、ブエノスアイレスに本拠をもつ「ラテン・アメリカ社会学委員会」の委員長に選ばれた。
 当時、「軍政大陸」と呼ばれた南米各国では多くの学者が自由を奪われ、追放されていた。彼らを保護し、外国留学等の援助をしたい。それが委員会の目的だった。尊い仕事であった。それだけに危険な仕事であった。
 祖国では極右と極左が、ともにテロを繰り返し、社会は騒然としていた。テロで歴史の潮流が変えられた例はないにもかかわらず。
 「私には妻と四人の小さな子どもがいました。帰国したら、どうなるのか。恐怖は、もちろんありました。しかし、皆が私を選び、信じてくれたのです。裏切るわけにはいきませんでした」
 帰国直後、状況は暗転した。「国家の再建のため」と称して軍事クーデターが起こったのである(七六年三月)。軍政下、自由の窒息は決定的になった。
 「考えることが禁止され、発表することが禁止される。これが人間にとって、どれほどの苦痛か。かつて軍国主義政権に弾圧された創価学会の皆さんならば理解してもらえると思います」
 博士は、軍政が発足するや、行動を開始した。委員会として世界の知識人に向かって手紙を書いた。その数、二千通。アルゼンチンで起こっていることを知らせ、その文章を雑誌にも発表した。
 ただちに、委員会の事務所は捜査され、博士はつねに警察に監視されることになった。
 「弾圧が始まると、二種類の人が出ます。第一のタイプは『弾圧には反対。しかし沈黙する』。第二は『弾圧には反対。ゆえに反撃の一言論を展開する』。私は後者の道を選んだのです。なぜか。これが正しい人生であったからです」
 正しいと信じたら、行動する。これを博士は、アンドレ・マルロー氏の著作から学んだ。
 十九歳で小説『人間の条件』に感動。氏に傾倒し、そのためにフランス留学を決めたほどだった。私とマルロー氏との対談集(『人間革命と人間の条件。』本全集第4巻収録)もご存じであった。
 人間の条件──私は思う。「人間は日々、刻々に問われ続けている」と。
 目の前の、どの道を行けば真の「人間」に近づけるのか? どちらの道が自分に誇りをもたせ、より高貴にするのか? 選択の無数の積み重ねが人生の軌跡となる。
 人間は、真の「人間」をめざして歩き続けなければならない。歩くことをやめた瞬間に、自分の中の「人間」は死ぬ。
 そして人間が人間以上の存在になろうとして権力欲に身をゆだねるとき、自分では上昇しているつもりでじつは人間以下に転落しているのである。
3  「五月広場」の母たちの戦い
 七六年から八三年までの軍政の初期、「汚い戦争」と呼ばれた恐怖政治が続いた。反政府活動者はもちろん、何の関係もない人々まで、テロリストを処罰するという名目で連行された。軍人たちが突然、家に乱入し、銃を突きつけて、連れていく。警察は呼んでも来ない。秘密の収容所で拷問、虐殺。飛行機から生きたまま落とされた人もいる。
 学割定期券の発行を要求しただけで虐殺された男女高校生もいた。「行方不明者」は二万人とも三万人ともいわれた。
 ブエノスアイレスの「五月広場」──市の心臓部である。ここに民政後も毎週、白いスカーフを頭に巻いた中年の女性たちが数百人集まり、行進した。軍に連行されたまま「行方不明」の息子を、娘を、夫を「生きて返せ」! せめて消息を明らかにするよう政府に訴えるために。スカーフには青い糸で子どもたちの名前を刺繍し、首から写真を下げていた。豪雨の日も寒風の日も、「五月広場」の母たちは抗議のために歩き続けた。
 私も、この広場を車中から見た(九三年二月)。痛ましかった。
 軍政下、権力者は彼女たちを″狂った女ども″と、あざ笑った。どちらが狂っていたのか。
 そして日本のある経済関係者は「軍政のほうが治安がよくなり、経済も上向いて、日本は債務を返してもらえる」と放言したという。どこまで「人間」から遠ざかれば気がつくのだろうか。
 「軍政下の七年間は本当に長かった。民主政権になったとき、前は口を閉ざしていた人も、いろいろと言いわけしました。責めるつもりも、自分が英雄気どりするつもりもありません。しかし、彼らの人生に満足があったかどうか。幸い、私には満足がありました。私は貫きました。だから私は幸福です」
 アルフォンシン大統領のもとで民主化は進んだ。私も来日した大統領と語りあい、「民衆の凱歌」を祝福した。(八六年七月)
 デリッチ博士は、すぐに国立ブエノスアイレス大学の総長に選ばれ、大学の再建に当たられた。在任中、私に招へい状も送ってくださった。
 二年後、教育副大臣となり、国全体の教育の民主化に努力した。かつて教職を追放された博士は、政治が教育を左右する悪が骨身に徹していた。「政治家が教育者を尊敬する社会」を築きたい。教育こそ国の基幹ではないか──と。
 そして八九年から二期六年間、コルドバ大学の名総長として活躍された。博士の念願は、母と子を切り離し、立場や信条で人類を分断するような悲しい時代は、もう絶対にいやだということであった。
 そして、人間を結びつけるには、内なる人間性を触発する「新たな人間主義」を広げるしかない、と。
 私への名誉博士号の授与式はコルドバにおうかがいする日程の都合がつかず、ブエノスアイレス市郊外で行われた。総長は旅先のイタリアのボローニャから、わざわざ駆けつけてくださった。
 南半球の真夏の光が、会場に集う青年たちを、まばゆいばかりに照らしていた。この青年たちに、先輩の世代は何を残すべきか。
 博士は、子どもさんから問われたという。「お父さん、どうして、あのとき、戦う道を選んだの?」「それはね、そうすることが正しかったからだよ」──。
 正義。子どもに残すこれ以上の財産はないであろう。日本へのある中国人留学生の言葉は重い。
 「日本はいつも利害だけに左右されているように見えます。日本の指導者には根本的に『正義』という観念が欠落しているのではないでしょうか」
 正義ゆえに後悔せず──「幸福の条件」は、そのまま「人間の条件」である。
 そして「人間の条件」がそのまま、日本の「国際化の条件」であり、「二十一世紀の条件」なのではないだろうか。
 世界が、歴史が、日本にこう呼びかけているようである。
 「物から、人間を救い出せ」
 「嘘から、人間を救い出せ」
 (一九九五年七月九日 「聖教新聞」掲載)

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