Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

世界人権宣言を推進ブラジル文学アカデミ… アタイデ博士

随筆 世界交友録Ⅰ Ⅱ(前半)(池田大作全集第122巻)

前後
1  その人に会うために、私はブラジルに行った。(一九九三年二月)
 リオデジャネイロの空港に着くや、コロンビアの高地(標高二六〇〇メートル)から来たためか、空気が濃密な感じがした。午後九時であった。
 空港の貴賓室に入ると、その人がいた。″南米の良心″──ブラジル文学アカデミーのアタイデ総裁である。総裁は、まっすぐに私に近寄り、手を取ってくださった。
 「池田(SGI)会長、一緒に戦いましょう。力をあわせて、人類の歴史を変えましょう!」
 九十四歳の総裁から、炎がほとばしった。烈々たる生命力が眼光に燃えていた。風雪に鍛え抜かれた″獅子″の風格が際立っていた。
 私は、両手で総裁の手を握り返した。「総裁は『世界の宝』の人です。私は総裁の魂を永遠に語り、継承してまいります」
 あとで、総裁が二時間も前から空港で待っていてくださったことを知った。驚いたSGI(創価学会インタナショナル)の友が別室に案内しようとすると、「私はもう百年近くも生きているのです。九十四年も池田会長を待っていたのです。一時間や二時間は、何でもありません」と微笑まれたという。恐縮した。
 総裁が待ちに待っておられたもの。それは、一切の差別なき「人権の世紀」の夜明けであった。
2  人権という日本語が硬く、よそよそしい感じがするならば、万人への「優しさ」「人間愛」と言ったほうがよいかもしれない。
 ある青年は、幼稚園のころ、母親に路上で頬をたたかれたという。からだの不自由な人を指さして「ぼくは、あんなじゃなくて、よかった」と言ったからであった。
 「こんな子に育ててしまって情けない」。母親は、ぼろぼろ涙を流した。「お前が、そんなことを言われたら、どんな気持ちがするか」。少年は、たたかれた痛みよりも、母親の悲しみぶりがつらくて、泣き続けた。
 少年だけのことではない。日本人の心を象徴する話かもしれない。「自分さえよければ」──その心があるかぎり、差別と戦うどころか、差別の存在すら見えないであろう。ゆえに、人を傷つけている自覚さえない。
 学校でのいじめ、メディアの人権侵害、女性や老人への差別、地域差別、学歴主義、宗教への差別、在日韓国・朝鮮人やアイヌ民族の閉め出し。
 ″身内″には温かく、″異質″に見える者は排除する。この島国根性は、どこまで根が深いのだろうか。そして、これほど人権の心──開かれた人間愛に遠いものもない。「人権」「人道」がわからないことは「世界」がわからないことである。
 総裁は言われた。
 「一国一民族のことではありません。人類全体の未来が問題なのです」
 ブラジルは大きな国である。総裁も大きな展望の方であった。あの爛々たる眼で、歴史の地平線の彼方まで見つめておられた。
 私の恩師(戸田城聖第二代会長)も、そういう方であった。恩師は十九世紀の最後の年(一九〇〇年)の生まれである。総裁はその二年前の生誕。恩師と同世代であり、ともに二十世紀を生き抜きながら、二十一世紀、二十二世紀をどうするかを考えておられた。
3  「人間よ、人間を苦しめるのをやめよ!」
 「私は十代の終わりから、働き抜いてきました。しかし苦労したなどと思ったことはありません。ただただ命がけで仕事をしてきただけです」
 初め聖職者になる道を歩まれた総裁は、自由な考えを抑圧されることに反発し、新聞記者に。
 ジャーナリストとして、一生涯、書いて書いて書き続けてこられた。コラムだけでも五万本。七十年間、毎日平均二本という驚異的な歴史である。
 ただ民衆に「自由」をもたらすために。「生きる喜び」と「人間の誇り」をあたえるために。「人間よ、人間を苦しめるのをやめよ!」「私は差別を絶対に許さない」と。
 この総裁の眼には、わが国などの″ぺンで人権を侵害する″ジャーナリズムがどう見えたであろうか。
 一九三〇年代には、ファシズムが台頭し、ブラジルでも独裁者が出現した。総裁は、真っ向から批判して三度、入獄。護憲革命にも身を投じ、三年間の国外追放。やがて総裁は凱旋し、独裁者は自殺の悲劇を迎えた。
 総裁は言われた。「権力者はずるいものです。私は『聡明さが、ずるい権力に打ち勝つ』ことをめざし、戦ってきました。これが私の人生のすべてです」
 総裁がブラジルの代表として、国連の「世界人権宣言」に尽力されたことは有名である。
 なぜ世界大戦が起きたのか。それは一人一人の人権が軽んじられていたからだ──この反省から計画されたのが人権宣言である。
 いわば、「人類の憲法」の序文ともいうべき宣言であった。歴史上、初の挑戦である。国も文化も思想・宗教も異なる人類全体が納得できるものでなければならない。当然のことながら、作業は難航した。
 「初めは何十人もの人々が意欲的に取り組んでいました。やがて仕事をする人が次第に減り、最後まで残ったのは、ほんの一握りの人になってしまいました。どんなに偉大な仕事でも、その意義は後になってみなければわからないのかもしれません」
 こうして不滅の三十カ条が採択された。第一条は、こうである。「すべての人間は、生まれながら自由で、尊厳と権利について平等である。人間は、理性と良心を授けられており、同胞の精神をもって互に行動しなくてはならない」
 ただの言葉ではなかった。一語一語の背景に、第二次世界大戦での数千万人もの犠牲がある。無数の涙がある。まさに血涙の叫びであった。
 あとは、この叫びをどう具体化していくかである。総裁の戦いは続いた。
 「二度と戦争を起こさないためには人間同士の関係を深めていくしかないのだ」「自由を守るには文化と教育によるしかないのだ」
 ゆえに私どもの文化・教育運動に共鳴された。
 「すべての人間のなかに″聖なるもの″を見る視点がなければ、″人間の尊厳″といっても思想の根っこがないことになる」
 ゆえに、万人に仏性を見る仏法哲学を賛嘆された。
 そして私との対談に意欲を示されたのである。
 しかし総裁は体調を崩しておられた。口述筆記を担当されていた秘書の方も「無理だと思う」と。
 「人類の宝」の博士である。健康になられるまで、いつまでも、お待ちしますと、私は日本から伝えた。その伝言に、にっとりして言われたという。
 「感謝します。しかし私には時間がありません。すぐ始めましょう。私は、しゃべって、しゃべって、しゃべり抜きます。さあ人類の未来のため、二十一世紀のために語り継ぎましよう!」
 こうして毎週土曜日の午後、ご自宅の書斎で、総裁は、私の質問状に答えて語り始められたのである。
 四万冊の蔵書に囲まれ、午後の木もれ日が入るソファに座って、毎回二時間、身じろぎもせず、語り続けられた。
 総裁は、私がそばにいるつもりで語っておられた。その思いを知るゆえに、毎週の対談に花束を私は届けた。総裁は、純銀の花瓶に生けて喜んでくださったという。
 肺炎のため入院されたのは八月二十七日(九三年)。最後の″対談″の六日後であった。集中治療室に入った総裁は、医師、看護婦に繰り返し言われた。「早く、ここから出してくれ。私にはやらなければならない大事な仕事がある。池田会長との対談を続けたいのだ。新しい世紀のためなのだ。だから、私をすぐに、ここから出してくれ」
 総裁の逝去の報が届いたのは、ハーバード大学での講演のため、私が渡米する直前であった。
 その九月十三日、フランコ大統領は「本日、ブラジル文学の一章が幕を閉じました」と追悼した。
 私は追善し、総裁が、八年前に先立たれた奥様を偲ばれた言葉を思った。
 「妻の死は人生で一番悲しい出来事でした。五十一年と四カ月、幸福に暮らしました。一時たりとも彼女のことを忘れたことはありません。時がたっても、その思いは深まるばかりです。やがて同じ墓所で彼女に会いたいと願っています。彼女の死から後は、私はただ、この世での使命を果たすだけです」
 総裁は、荘厳に使命を果たされ、その後継を私どもに期待して亡くなられた。
 「SGIがある限り、人権の世紀は来ます。私は安堵しています」と。
 一年半後の二月十一日、総裁の遺言となった対談集『二十一世紀の人権を語る』(潮出版社。本全集第104巻収録)を上梓し、総裁にささげることができた。その日は恩師戸田先生の生誕九十五年の日であった。
 (一九九五年二月十九日 「聖教新聞」掲載)

1
1