Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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民主チリのパイオニア エイルウィン大統領

随筆 世界交友録Ⅰ Ⅱ(前半)(池田大作全集第122巻)

前後
1  チリへ行く飛行機は、黄金の夕陽に向かって飛んだ。二年前(一九九三年)の二月。パラグアイから西へ、アンデスを越えた。
 眼下の銀嶺が紅に染まっていた。
 日本から一番遠い国。チリは私の五十カ国目の訪問国となった。海外訪問の第一歩、ハワイの浜辺から三十三年──私は詠んだ。
  壮厳な
    金色ゆうひに包まれ
       白雪の
     アンデス越えたり
       我は勝ちたり
 首都サンティアゴ。ヨーロッパ風の重厚な建物が目立った。市の中央をマポチョ川が流れる。
 七三年の軍事クーデターの後、この川に毎日のように死体が浮いたという。軍政は、前政権の関係者、支持者をはじめとして徹底的な弾圧を加えた。
 死者と「消えた人(併が不明者)」は少なくとも三千人を昨えた。不法逮捕者十七万人。亡命者三十万人。国は恐怖に凍りついた。だれも本当のことを口にできなくなった。
 チリ第二の都市コンセプシオンで、八三年、一人の男性が抗議の焼身自殺を図った。不法逮捕された二十二歳の息子と二十歳の娘への拷問をやめさせようと、彼は心あたりをすべて駆けずり回ったが、徒労に終わったのだ。
 その日、彼は広場に仁王立ちになり、ガソリンを頭からかぶった。「子どもたちを解放しなければ、私は自分に火をつける」。どんな説得も命令も、彼の決心を動かせなかった。
 国家警備隊員が近づいた。その瞬間、彼はみずから火ダルマとなった。何という愛。何という叫び。町は感動に激震した。
 当局も、娘が病院へ行くことを許さざるを得なかった。しかし面会は許可されなかった。
 インターホンで聞こえる娘の声に「‥‥本当にお前かい?」。娘は泣きながら、幼いころに父が呼んでくれた自分の愛称で答えた。
 父はまもなく息を引き取った。兄と妹は、父の願いどおり、通常の裁判にかけられることになった。チリの友人が教えてくれた事実である。
 権力──この残虐なる魔物。チリの人々は、身をもって、その魔性を体験した。
 チリ訪問の前年の秋、東京で私にエイルウイン大統領は語られた。大統領は、軍事独裁を倒し、民主化を実現した中心人物である。
 「権力には『目的のためには手段を選ばない』ようになる誘惑があります。権力の『座』につくため、また、その『座』を維持するためには、手段を選ばなくなるのです。
 だからこそ、権力者には『倫理』が必要です。人間は何のために生まれ、何のために生きているのかを考える必要があるのです。
 私の場合は、キリスト教徒として、人間は神と人間に奉仕するために生まれたのだと信じています。この考えを政治の世界で生かすならば、政治とは人々のため、民衆の利益に奉仕するためにこそあると思います。
 この点、他の宗教的信念をベースにしても、『正しい政治』を考えれば、同じ信条になると信じます」
 大統領は党首であったキリスト教民主党をふくめ、軍政下では、各政党は活動を停止させられた。
 暗黒の十六年。しかし、光が消えたわけではなかった。人々は文化で抵抗した。
 「真実」を伝えるべく、ひそかにカードに絵を描いて広めた。アルピジェーラという壁掛けも。地下出版物を回覧した。詩、彫刻、演劇、小冊子──それらの交流が見えない、ネットワークを作った。
 テレビや大新聞は、独裁政権に取り込まれていた。洪水のように流される「ウソ」。繰り返されれば、それを信じる人々も出てくる。
 抵抗文化は、ウソの海に包囲された孤立無援の島であった。しかし、この島にのみ、「人間」は生きていた。
 エイルウイン大統領は「民主的文化」の力を強調された。民主主義をたんなる「制度」ととらえることは大変な誤りです、と。
2  民主主義とは「生き方」
 民主主義は何より「文化」と「生き方」の問題である。人間への敬意、たがいに思いやる心。それらが失われ、人権を踏みにじるウソへの怒りが衰弱するとき、民主社会は土台から崩れていく。
 「本当のこと」を言って何が悪いのか! 人々は怒りを歌に託した。
  牢屋でも憲兵でも連れてきてよ
  だって真実の光に照らして
  あたしは話しているんだから
 (ビオレッタ・パラ『人生よありがとう』水野るり子訳、『インディアス群書』8、現代企画室)
 この歌をつくったビオレッタ・パラの心意気を民衆は愛した。
 彼女に続いた「新しい歌」の担い手ビクトル・ハラの歌も繰り返し歌われた。そのビクトル・ハラも、クーデターで銃殺された。しかし、人々は歌うことだけはやめなかった。
  民衆の希望を押しつぶすやつらは倒れるだろう
  汗も流さず民衆のパンを食べたやつらは倒れるだろう
  畑に昇る太陽のように
  民衆は立ち上がるだろう
 そして太陽のように民衆が立ち上がる日がやってきた。
 八八年二月。長期独裁に反対する勢力が「ノーのための大連合」を発足させた。十数の政党が「ノー」の一点で握手した。その中心にエイルウイン氏がいた。
 ともかく心をあわせよう。バラバラの光を結びあわせ、「大きな光」で未来を照らすのだと。
 圧迫の包囲網のなか、アイデアをとらした手守つくりのキャンペーンが、全国を揺るがした。そして十月の国民投票で、歴史的な「ノーの勝利」が実現したのである。
 翌八九年十二月には、十九年ぶりの大統領選挙で、民主勢力の統一候補エイルウイン氏が圧勝。長い長い夜が明けた。
 「自由!」。喜びの人波が細長いチリの全土に躍り出た。旗が揺れた。クラクションが鳴った。宴は、いつ果てるともなく、「第九」の歓喜の歌の合唱がアンデスにこだました。
3  モネダ宮殿(大統領府)を表敬訪問した。「和解の大統領」エイルウィン大統領が、トレードマークのあの笑顔で待っていてくださり、再会を喜びあった。就任から三年のそのときも、支持率八〇パーセントという人気である。
 大統領が見つめておられたのは未来だった。環太平洋時代に顔を向け、日本とチリの文化交流をと熱をこめて語られた。「太平洋の隣人」同士が、もっと近づき、もっと知りあう努力が必要です、と。
 その言葉どおり、翌年(九四年)にはみずから来日され、創価大学でも講演してくださった。
 退任された後もなお行動を続けておられる。「私は言いたくありません。『とれで終わりだ。さて書斎にこもって自伝でも書こう』とは。今日まで信じてきた信念を掲げて、さらに戦い続けたいのです」と。
 発刊予定の私との対談集のタイトルは『太平洋の旭日』である。
 六〇年、チリ大地震の波動は太平洋を渡り、日本にまでも達した。地球の狭さを実感した体験であった。
 今度は、チリから民主の波動を日本は得たい。チリの人々がみずからの手で昇らせた「人権の旭日」を、日本でも昇らせたい。「もう二度とウソは許さない!」との崇高な怒りを学びたい。
 大統領は言われた。「ウソは暴力にいたる控室です。『真実が君臨する』ことが民主社会の基本なのです」と。
 忘れ得ぬ金色のアンデス。あの威容のごとく、日本に「ウソは許さない」との不動の規範がそびえ、君臨する日を私は夢見る。
 (一九九五年一月十五日 「聖教新聞」掲載)

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