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日蓮大聖人・池田大作

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南米新時代のリーダー ガビリア コロンビア大統領

随筆 世界交友録Ⅰ Ⅱ(前半)(池田大作全集第122巻)

前後
1  連絡が入った。私は、アメリカのマイアミにいた。
 コロンビア共和国の大統領府からであった。
 「池田(SGI)会長は本当にコロンビアに来てくださいますか?」
 訪問予定の直前であった。大きな爆弾のテロが起こっていた。一九九三年二月の初めである。
 一月の末から、麻薬組織によるテロが激化していた。それまでは政府関係のビルが爆破されていたのだが、このときは一般人から多くの犠牲者が出た。
 その模様が、アメリカのテレビをはじめ世界で大きく報道された。
 予定されていたある会議も、参加者が訪問を見合わせ、中止になった。危険のため、コロンビアを遠ざかる報道関係者も多かった。
 私の訪問の主目的は「日本美術の名宝」展の開催である。私が創立した東京富士美術館の所蔵品を、コロンビア国立博物館で展示する企画であった。
 じつは、この企画も当初、実現を危ぶむ声があった。貴重な伝統美術品を百二十点も展示するのは、あまりにも危険だというのである。
 ある意味で、常識的な意見だったかもしれない。しかし、私は、あえて言った。
 「名宝展は、コロンビアへの友情の証です。友情は何ものにも代えられない。いかなる貴重な″物″よりも″友情″が大切です。何があろうと、私は信義を貫きたい。それが本当の文化ではないでしょうか」
 「コロンビア大黄金展」(九〇年、東京富士美術館)では、世界初公開の「千七百カラットのエメラルド結晶原石」をはじめ、国宝級の約五百点を日本へ運んでくださった。
 その答礼の意味もこめた「日本美術の名宝」展であった。私の意見がとおり、準備は予定どおり進められた。
 誠実には、大誠実で応えたい。友情には、相手が一番大変なときにこそ応えたい。
 まして文化の交流の仕事である。魂の次元の事業である。
 マイアミから、私は大統領府へ伝えた。
 「私のことなら、心配はいりません。予定どおり、貴国を訪問させていただきます。私は、もっとも勇敢なるコロンビア国民の一人として行動してまいります」
 首都サンタフェ・デ・ボゴタ。標高二六〇〇メートル。
 空港も、「空が近い」感じがした。私は三十数年前(六〇年十月)の夜を思い出していた。
 初の南米訪問の途中、飛行機が給油のため、このエル・ドラド(黄金郷)空港に立ち寄ったのである。
 仰いだ満天の星座。あの銀の空、銀の光が、まばゆいばかりに蘇った。
2  到着の二日後(二月八日)、大統領府を表敬訪問した。
 ガビリア大統領ご夫妻が、にこやかに出迎えてくださった。大統領夫人とは、東京での会見以来の再会である。
 到着以来、万全の態勢で私を迎えてくださったご夫妻の真心を私は痛切に感じていた。
 ガピリア大統領は当時、世界で三人とされた「四十代の大統領」。
 「世界でもっとも危険な職業」と呼ばれるコロンビア大統領に四十三歳で就任された。精惇な風貌に、若さと意欲が、みなぎっていた。コロンビアのノーベル賞作家ガルシア=マルケス氏は「政治家の世代変化を代表する人物」と呼んだ。
 話が進み、大統領が言われた。
 「日本の指導者、国民、識者の方々に知っていただきたいのは、コロンビアには多面性、多様性があるということです」
 麻薬問題ばかりがクローズアップされていることは、いかにも偏った見方であった。
 ガビリア大統領は就任するや、幅広い国民が政治に参加できるよう、抜本的に法律を改正した。
 一方で、「開放」政策を掲げ、貿易の自由化、国営企業の民営化、外資の導入を進めた。中南米でもっとも安定した経済成長を実現したといわれている。
 「ラテン・アメリカの多くの国が債務問題をかかえるなか、コロンビアは債務の返済が順調に行われています。一人当たりの国民所得も向上しています」
 説明される大統領の声には、「真実を知ってほしい」との祈りがこもっていた。
 ここに「真剣の人」がいる──。私は申し上げた。
 「どんな国にも課題があります。課題がない国も団体も、ありません。そうした一面を全体のように見ているかぎり、相互理解はない。平和はありません。表面だけを見るのでなく、相手の立場に立って、自分の目で見、確かめなければなりません。『コロンビアの豊かな可能性を開くには、どうすればよいのか』との視点と、行動が必要です。
 とくに、今後の『世界一体化』の時代には、相互理解へ、具体的な『地に足のついた』努力が求められています」
 個人に対しても同じである。冷たい、いわゆる客観的な見方が、その人の「真実」を見抜くとは限らない。むしろ、多くの場合、相手への温かい「好意」こそが、その人を知る一番の近道なのである。
3  「政治とは不可能を可能にする芸術」
 大統領は、病死された父君にかわって、早くから一家の責任を担われた。
 大統領に就かれたのも、大統領候補であった上院議員が凶弾に倒れ、急逮、その後継者に指名された結果であった。
 私も、若き日から、重い責任を背負ってきた人間である。国家の若き柱としての苦衷を察した。
 あるインタビューに、大統領はこう答えられている。
 「私はひじようにつらいのです。暴力や不正や麻薬といった問題に多くの時間と労力を使うこと。なぜなら、それらに必要な時間も財政も、本来、大統領たる者の最重要課題である弱い人たち、なかんずく子どもたちに回せるはずだからです。
 この国の大統領が、社会における弱い立場の人々に、もっと時間をかけられるよう、いっの日か、暴力の問題を解決したいのです」
 大統領の熱い心情は、聡明な大統領夫人も共有しておられた。
 「子どもたちは、国家の最優先課題です」と言われて、五歳から二十五歳までの貧しい青少年による音楽活動を推進された。
 夫人は「現在、全国から三千人が参加し、十七のオーケストラ、六十三の音楽グループ、二十二の合唱団を擁するまでに発展しています」と紹介してくださった。
 楽器など手にしたこともなく、自分を磨くあらゆるチャンスを奪われた若き人たち。彼らが大統領府で見事に演奏をする光景は、感動的であったという。
 夫人と初めてお会いしたときも(九二年五月)、文化の力を強調しておられたことが印象的であった。
 「文化は人間を開発し、人間を向上させるものです。文化の力によって暴力を阻止できるのです」
 「日本美術の名宝」展は、幸い、好評であった。夫人が同展の名誉総裁として全力を注いでくださった。
 コロンビアの建国以来、初めてという本格的な日本美術展である。
 それまで日本のイメージは、「テクノロジー(技術)とカラテ(空手)の国」といったものであり、世界のどこにあるのか正確に知らない市民も多かったという。
 「桜の国の心」に初めて出あった。その喜びから「蘭の国」の人々は、「ぜひ二回目の日本美術展を」と求められ、九四年には「日本の美と心」展が実現した。
 私はうれしかった。太平洋が結ぶ「隣国」が、やっと心を通わせ始めたのだ。
 心が通わずして、何ができよう。心をわからずして、何がわかろう。
 九四年二月、ガビリア大統領夫妻は、創価大学を訪問してくださった。大統領の講演は若人の胸を打った。
 「私は、政治とは″不可能を可能にする芸術″であると強く確信しております」
 「不可能に思えることに命をかけて戦う理想主義者の存在しない世界とは、いったい、どのような世界でありましょうか」
 大統領は、私の行動についても、「冷戦の終結以前から、そのころ不可能に見えた平和に挑戦してきた」と、共感を示してくださった。
 そして「平和を実現することは可能である」「貧困を根絶することは可能である」と堂々と叫ばれたのである。
 開発途上国に対し、冷戦時代は「戦争を続けるための援助」が不足することは決してなかった。しかし今は、「民主主義を守り、貧困を軽減するための国際援助」は巧妙に避けられている──大統領の指摘は、切実な現実である。
 「人類は、世界に存在する貧しい人たちを忘れてはなりません。忘れることを決して許すことはできません」
 命を的にして、民衆の苦悩と戦う若き指導者。
 貧困も暴力も、全人類の課題である。人ごとではない。同じ今このときに、同じ地球に住む人々が苦しんでいるのである。
 その意味で、大統領ご夫妻は、人類を代表して、コロンビアの地で悪戦苦闘されていると言えよう。感謝し、敬意を払い、ともに戦うべきではないだろうか。世界市民であるならば。
 日本が自国の一時の利害のみを考えて、「精神の最貧困」と軽蔑されることを私は憂う。
 ガピリア大統領は、大統領の任期を終え、OAS(米州機構)の事務総長に就任された。
 南米新時代のリーダーに期待は大きい。
 かつて駐日コロンビア大使であったドゥケ博士が、私に言われた。
 「世界の最大の課題は、指導者の不在です。指導者とは希望を創造する人のことです。『道』もなく『光』もない世界にあって、人々に進むべき『道』と『光』をあたえる人のことです」
 道は行動で開くしかない。光はみずからを燃やすしかない。
 ひとたび友情を結んだ私は生涯、「勇敢なるコロンビア人」として、かの国の繁栄へ尽くすつもりである。
 (一九九四年十一月二十七日 「聖教新聞」掲載)

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