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日蓮大聖人・池田大作

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永遠のペンの戦士 巴金(ぱきん) 中国作家協会主席

随筆 世界交友録Ⅰ Ⅱ(前半)(池田大作全集第122巻)

前後
1  信念ゆえに辛酸をなめた人間は、青年しか信じられなくなるのかもしれない。
 私の恩師戸田城聖第二代会長はよく「老人はだめだ。青年に託すしかない」と語気鋭く言われていた。恩師は戦時、ともに牢獄に入った同世代の人間が次々に転向していった無念さを、終生、忘れなかった。
 中国を代表する作家・巴金氏に初めてお会いしたときも、氏の言葉は「青年は人類の希望です」であった。
 氏が、文化大革命の十年問、「大毒草」とののしられて、どれほど踏みつけにされ、迫害されたか。片鱗であれ、惨状を伝え聞いていた私にとって、これが型どおりの言葉でないことが痛いほどわかった。
 時は一九八〇年(昭和五十五年)四月。私の会長勇退から一年になろうとしていた。
 文化大革命と規模は違うにせよ、私どもも権威主義の僧侶らによる迫害の嵐の中にあった。
 「狂信」が権威・権力と結びついたときの暴虐さ。人間は人間に対して、ここまで野蛮になれるのか。何が人間をここまで獣に堕としてしまうのか。「野放しのうそ」による人身攻撃も続いていた。文化大革命は決して対岸の火事ではなかった。
 その日、巴金氏を私どもの静岡研修道場にお迎えした。作家の謝冰心しゃひょうしん女史、林林りんりん氏もご一緒であった。ちょうど研修に訪れていた東京の女子中学生たちが、愛唱歌で一行を歓迎してくれた。
 歌ったのは「希望の二十一世紀」そして「若い力で」。歌声は春たけなわの庭に広がり、少女たちの紅潮した顔をやわらかな日差しが照らした。
 巴金氏は「若者の成長を見るとうれしくてたまらないのです」と、全身で喜びを表し、彼女たちに声をかけられた。
 「本当にありがとう。青年は人類の希望です。私たちが中日友好のために働いているのも皆さんのためです。そして中国の青年のためなのです」
 この日をふくめ、私は巴金氏と四たび語りあった。そのたびに、謙虚なお人柄の内につつまれた、鉄のごとき信念の強い一念を感じた。
 あるとき、私はうかがってみた。文革のどん底の苦悩のなかで、死を考えたことはありましたか──。
 当時、追いつめられた自殺者は数えきれぬほどあったのである。
 「いや、考えたことはありません」。答えは、きっぱりとしていた。「苦しいことは多かったが、そのなかで考えた唯一のことは『戦って、戦って、戦い抜いて生きていく』ということでした」
 巴金氏は、あのころ、「文壇のボス」「反革命分子」と批判された。紅衛兵に自宅を荒らされ、夫人は彼らに銅製バックル付きのベルトで殴られた。「牛鬼蛇神(妖怪変化)」と決めつけられ、「牛小屋」と称する私設牢獄で連日、追及された。ありもしない罪状を″告白″させられ、侮辱され、大会で「つるし上げ」が行われた。
 友人と引き離され、命であるぺンも取り上げられた。唯一の心の支えであった夫人も迫害を受け、病に倒れたときも、「毒草の妻」であるからと治療を受けられず、やっと入院したときには手遅れであった。三週間後に夫人は逝去された。
 文革が終わって十年たっても、氏は夜は悪夢にうなされ、心の傷痕は血を流して肉体を苦しめた。
 はじめ文革の大義名分を信じた氏も、すぐに「うそ」がわかってきた。四人組をはじめ、自称″正統の革命戦士″は無実の人間をつるし上げ、罪におとしいれては、その屍を踏み台にして出世していったのだ。
 ″正信″を標傍しながら、正義の民衆をいじめぬいた僧侶たちと何とよく似ていたことか。
 巴金氏は、文革という「大量の非人道的な残酷な行為を産んだもの」が「『左』の衣をまとった宗教的狂信だった」という意見に賛同している(「人道主義」石上韶訳、『無題集』所収、筑摩書房)
 最愛の夫人も、仕事も、人間としての尊厳も、すべて奪われた。しかし氏は、眼をカッと見開き、胸の奥で叫んだ。「一切合財みんなやって来い、おれは持ちこたえてみせるぞ」
 嵐は去った。廃墟に立って、氏は誓った。二度と悲劇を繰り返さないために、文革という「大ペテン劇」がなぜ起とったのか、再発を防ぐには何が必要かを書く。後世に書きとどめる。それまでは死ねない、と。
 その決意を私に語ってくださったときの目の光が忘れられない。
 暴力では奪えないものが、この世にはある。権力がつぶそうとすればするほど燃えさかるものがあるのだ。
 氏は「ベンの戦士」として、魯迅の精神を継がれている。若き日に魯迅に師事した思い出にふれた文章で、氏は
 ゴーリキーが描いた「勇士ダンコ」と魯迅を比べている。ダンコは一族を救うために、自身の心臓をえぐり取って炬火たいまつとし、人々を道案内した英雄である。
 師・魯迅こそが「数十年間、燃えさかる自分の心臓で私のために道を照らしてくださった」と。「先生を想い出した、正にそのお蔭で、私は生き続ける勇気が出た」「私は、この教訓をしっかりと記憶にとどめておく」(「魯迅先生を追慕する」石上韶訳、『真話集』所収、筑摩書房)
2  京都での文化講演会(聖教新聞社主催)では、こう叫ばれた。
 「私が作品を書いたのは生活のためではなく、有名になるためでもありませんでした」「私は敵と戦うために文章を書いたのです」「敵は何か。あらゆる古い伝統観念、社会の進歩と人間性の伸長を妨げる一切の不合理の制度、愛を打ち砕くすべてのもの、これらが私の最大の敵」
 「筆によってわが心に火をつけ、わが体を焼きつくし、灰となったとき、私の愛と憎しみは、この世に消えることなく残されるでしょう」(八〇年四月十一日)
3  お上に従って、立派な文学はできない
 一九〇四年生まれという高齢のうえに、けがや病気が続き、握ったボールペンが数キロもの重さに感じたこともあるという。それでも、一日に二百字、三百字ずつであっても、戦士は書き続けた。
 氏には、吐き出さなければならない「心の火」があった。「魂の血債(借り)」を清算しなければならなかった。
 政治と文学についてうかがったのは、静岡での出会いから数週間後、上海での私の宿舎であった。
 「文学は政治から離れることはできません。しかし、政治は絶対に文学のかわりにはなり得ない。文学は、人の魂を築き上げるものだからです」
 政治に無関心を決めとむ文学もある。しかし、それでは結局、権力の悪を撃つ力をも萎えさせてしまうのではないか。文学が民衆の生活に愛情をもって関わるかぎり、政治を監視せざるを得まい。
 その意味で、氏の文学観は「文章は経国の大業にして不朽の盛事なり」という中国の伝統に根ざしていよう。ここでは、文学は遊戯ではない。一文、一字のために権力に殺されるかもしれぬ覚悟が要求されているのである。
 「歴史上の立派な文学で、お上の意向に従って書かれたものは、一つもありません。価値ある文学かどうか、決めるのはつねに民衆なのです」
 氏にとって、書くことは「ただ真実を述べる」ことであり、「うそと戦う」ことである。

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